郷土の先人 ➃
本多 真喜雄 ・ 郷土の先人 173
本多 真喜雄 (ほんだ まきお)
明治11年~昭和26年(1878~1951) 卯之町銀行頭取、県会議員・衆議院議員・宇和町長。
明治11年3月20日、宇和郡上宇和村(現東宇和郡宇和町)久枝の素封家に生まれた。京都同志社中学・第一高校を経て東京帝国大学独法科を卒業、大学院で商法を専攻したが、父の死で帰郷して農業を営んだ。明治40年9月県会議員に当選したが、翌年10月辞任した。実業界に転じて、卯之町銀行頭取・宇和商業銀行頭取を務め、愛媛材木会社社長や宇和肥料・卯之町繭売買所取締役を兼ねた。
大正9年5月、第14回衆議院議員選挙に憲政会から推されて第6区で出馬したが落選、次の13年5月の第15回衆議院議員選挙では政友会の佐々木長治と激烈な選挙戦を演じわずか12票差で敗れた。昭和5年2月の、第17回衆議院議員選挙に第3区民政党公認で再出馬してようやく当選したが、7年2月の第18回選挙では再び落選、11年2月の第19回衆議院議員選挙で当選返り咲くといった落選・当選を繰り返した。
昭和12年、代議士を辞して宇和町長に就任、予讃本線の宇和町経由誘致などで政治力を発揮した。そのほか、蚕業製糸方面でも活躍した。昭和26年12月18日、73歳で没した。 昭和40年、宇和町は銅像を建てて顕彰した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
古谷 綱武 ・ 郷土の先人 172
古谷 綱武 (ふるや つなたけ)
明治41年~昭和59年(1908~1984) 評論家。
明治41年5月5日,外交官だった古谷重綱(西予市出身)の長男として、ベルギーのブリュッセルで生まれた。小学生になるまでは、ロンドンで育つ。小学校は7回転校、中学も宇和島中学、青山学院、成城学園へと移る。大正15年成城高校へ進み、外国文学に関心を持ち、小泉八雲に惹かれる。昭和4年4月創刊の文芸誌「白痴群」に、同級の大岡昇平らと入り、中原中也、小林秀雄らと知り合う。この年、谷川徹三を訪ね生涯の師とする。同8年、大鹿卓らと「海豹」を創刊。「川端康成」「谷崎潤一郎」などの評論で活躍。同人に太宰治がいた。
昭和9年、檀一雄らと「鷭」を創刊。同11年2月『横光利一』を刊行。この評論集で、文芸評論家として立つ。7月『批評文学』、11月『川端康成』を刊行。自己批評につながる啓蒙精神に裏づけされた評論をめざす。以後、評論家としての道をあるき、作家論を中心とした文芸評論のほか、児童文学、教育、婦人問題農村問題、人生論など、多方面にわたって活躍、80余冊の著書を世に送り出した。昭和19年秋、陸軍補充兵として応召し、旧軍隊生活を経験した。同20年、終戦と共に高知市より復員、東京宅に帰り評論活動を続けた。日本文芸家協会会員。昭和59年2月12日死去、75歳。葬儀、告別式は、故人の遺志で行われなかった。評論家でニュース解説者の古谷綱正は実弟。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
古谷 重綱 ・ 郷土の先人 171
古谷 重綱 (ふるたに しげつな)
明治9年~昭和42年(1876~1967) 外交官。ブラジルに移住して活躍。
明治9年6月12日、現西予市宇和町明間に綱紀の次男として生まれた。米国ミシガン大学に学ぶ。新聞社勤務を経て外務省に勤め、外務省通商局長、メキシコ駐在、アルゼンチン兼ウルグワイ兼パラダワイの特命全権公使等を歴任。アルゼンチンでは、よく在留邦人の世話をし、「平民公使」として親しまれた。昭和3年、官を辞しブラジルに移住した。ブラジルでは、80アルケールス(1アルケールスは2町5反)の大農場に、コーヒー栽培、養蚕等を経営。この営農資金協力者には、本県出身の村井保固(2万円)・佐々木長治(3千円)等が含まれていた。古谷は、移住者の錦衣帰国の風潮には反対で、永住的移住の考えをすすめた。彼はまた、社会事業等にも尽力、同仁会理事長、在伯日本人文化協会長(昭和9年)、日本病院建設委員会委員長(同11年)、サンパウロ教育普及会長、サンパウロ大学講師等、多方面にわたっている。
太平洋戦争後は、認識派の立場で在留邦人を指導、昭和21年、臣連特攻隊に襲われたが難を逃れたこともあった。同42年9月17日、91歳で死去,勲二等旭日重光章を贈られた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
二神 駿吉 ・ 郷土の先人 170
二神 駿吉 (ふたがみ しゅんきち)
慶応4年~昭和36年(1868~1961) 実業家,衆議院議員。
慶応4年6月8日、宇和郡城辺村(現南宇和郡愛南町城辺)で郷土二神深蔵の次男に生まれた。父は、国会開設期の政治運動家で県会議員を務めた。南予中学校(後に宇和島中学校)を経て英吉利法律学校(現中央大学)を卒業した。内国通訳会社員、東京モスリン紡織会社支配人となり、やがて三井物産に迎えられた。九州における石炭部の事業を統轄、大阪西・名古屋・門司の各支店長を歴任した。
大正10年、大日本人造肥料会社創立に伴い三井系の代表として専務取締役に就任、次いで日本油脂会社社長になった。大正13年5月の第15回衆議院議員選挙に郷党から推されたが、本人は気乗りせずあまり運動をしなかったので落選した。昭和3年2月の第16回衆議院議員選挙では雪辱を期し、地方実業界もあげて支援したので最高点当選した。政友会に所属し、代議士としては当時高知・愛媛両県で紛糾していた宿毛湾入漁問題の中央交渉に働いた。
昭和5年2月の衆議院議員選挙には立たず、実業界に戻って太平洋戦争の直前、国策会社である樺太開発会社社長や宇部興産社長を務めた。母校の中央大学理事・南予時事新聞社取締役にも名を連ねた。俳句をよくし、白雨と号した。弟二神節蔵は、山下近海汽船会社の社長であった。昭和36年10月1日、93歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
長山 源雄 ・ 郷土の先人 169
長山 源雄 (ながやま もとお)
明治19年~昭和26年(1886~1951) 郷土史研究家。
明治19年1月16日、北宇和郡吉田町本町和泉屋こと長山松太郎の長男として生まれる。町の西北山丘にあった犬尾(または犬日)城に因み、乾城と号す。東京錦城中学校を卒業し、松山第22連隊で軍曹に進む。自らの出身地域南予の古代史に関心を示し、ことに考古学方面で県内の貝塚はじめ、弥生・古墳・歴史時代にわたりよく渉猟、大正4年、30歳未満で「宇和津彦」について「伊豫史談」に、翌年「南伊予の古墳」を中央の「人類学雑誌」に寄稿した。その後も「南予にて発見の銅鉾」「松山市及付近出土の弥生式土器」「南伊予における石器と土器」「伊予国越智郡乃萬村阿方貝塚」などを同誌に寄せ、「古代伊予の青銅文化」「伊予出土の漢式鏡の研究」「伊予出土の古瓦と当時の文化」などの研究を「伊予史談」に連載して考古学界に広く貢献した。
さらに文献学的にも深く研究し、橘氏・日振島・宇和郡棟札などから歴史地理的条理制・荘園分布・守護職・郡司の再確認にまでも及んだ。古代・中世のみならず,「伊予に於ける小早川隆景」その他60余篇を発表している。またこれらの総括ともいえる『伊予古代文化の研究』の稿本が、県図書館にあったが逸失して見られず、僅かに部分的な『伊予古代文化』、吉田町刊の『南予史概説』などの謄写本に、その片鱗と氏の適確な研究態度を窺うことができる。
晩年は、大分県に入植した。直入郡柏原村寓居で、同地方関係の考古論文を「考古学雑誌」に寄稿した。昭和26年11月6日没、65歳。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
那須 善治 ・ 郷土の先人 168
那須 善治 (なす ぜんじ)
慶応元年~昭和13年(1865~1938) 社会事業家。
慶応元年6月21日、宇和郡川之石浦内之浦(現西宇和郡保内町)の那須多重郎の長男として生まれる。少年時代は、川之石で酒造の手伝いをしていたが、28歳で上阪した。第一次世界大戦中、相場で成功し巨額の富を築いた。しかし富豪や成金階級が一般住民を苦しめている実情を見て、自分が成功したのは社会の人たちのお陰だと、余生を社会事業に奉仕しようと決意する。
神戸のスラムに賀川豊彦をたずねて、賀川から消費組合運動の助力を求められ,大正10年に灘購買組合を創立した。若いころロバート・オーエンに傾倒し、「一人は万人のために、万人は一人のために」を座右の銘とした。熱心なクリスチャンで、勤勉、努力、奉仕に生涯を貫いた。出身地川之石にも学校施設、育英資金等に多額の寄附をした。昭和13年12月19日、73歳で死去。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
末光 千代太郎 ・ 郷土の先人 167
末光 千代太郎(すえみつ ちよたろう)
明治26年~昭和49年(1893~1974) 実業家、県会議員。伊豫銀行頭取・会長として金融界・財界の指導者であった。
明治26年2月26日、東京で末光類太郎の長男に生まれた。宇和島中学校卒業後京都第三高等学校に入学したが、家事の都合で中途退学して帰郷、やがて卯之町銀行常務取締役になった。
大正10年4月宇和町長に選ばれたが、ほどなく辞職した。大正12年9月県会議員になり、昭和6年9月まで2期在職した。12年6月にも県会議員に選ばれたが、業務多忙の理由で昭和13年1月辞職した。
しばしば衆議院議員の出馬を促されたが、政治と実業は両立しないとの信念で固辞し続けた。この間、昭和6年宇和卯之町銀行頭取、13年豫州銀行専務取締役、16年伊豫合同銀行常務取締役を歴任した。戦後23年9月に伊豫銀行頭取に就任、昭和44年10月会長に退いた。銀行一筋の中で、戦前は金融秩序の安定に力を注いで県下の銀行大同合併に貢献、戦後は金融界・財界の指導者として経済の復興と地場産業の育成に尽力した。
傍ら、県商工会議所連合会会頭・愛媛経営者協会会長・瀬戸内海大橋架橋協力会会長などの要職につき、地域経済の発展に大きな役割を果たした。昭和45年に県功労賞を受げた。明治人の気骨と公正な信条を持った清廉な人柄で知られた。昭和49年11月5日、81歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
白城 定一 ・ 郷土の先人 166
白城 定一 (しらき さだいち)
明治20年~昭和53年(1887~1978) 実業家、衆議院議員。
明治20年4月25日、北宇和郡喜佐方村(現宇和島市吉田町)で、白城清太郎の次男に生まれた。義務教育を終え、明治35年10月、16歳のとき同郷の山下亀三郎を訪ね、山下の経営する横浜石炭商会(のち山下汽船)に入った。横浜で英語を学び、山下の片腕として草創期の山下汽船の発展に努めた。大正10年取締役営業部長・経理部長、13年常務取締役兼ロンドン山下会社取締役、昭和4年から専務取締役に就任、名実ともに山下汽船の大黒柱になった。
昭和5年2月の第17回衆議院議員選挙に政友会から推されて第3区で立候補したが、同郷の清家吉次郎と党派・地盤が競合し落選した。次の7年2月の第18回衆議院議員選挙では最高位当選を果たしたが、国会の雰囲気が理想とかけ離れていることを痛感し、代議士は一期だけで辞めた。昭和7年、日満鉱業会社を創立して満州の金属鉱を採掘、満鉄と共同会社の日満鉛鉱会社の副社長にも推された。さらに国策会社の満州重工業と提携して大規模採鉱を続けるなど、新天地満州を舞台に活躍した。
戦後追放解除の後、昭和27年シカゴで開催の世界動力会議に出席したのを機会に世界を一周して鉱工業を視察、帰国後内地鉱山の経営に当たった。昭和53年11月3日、91歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
松浦 鎮次郎 ・ 郷土の先人 165
松浦 鎮次郎 (まつうら ちんじろう)
明治5年~昭和20年(1872~1945) 教育行政官、九州帝国大学総長、貴族院議員、米内内閣の文部大臣。
明治5年1月10日宇和島に生まれた。明治31年、東京帝国大学法科大学政治科を卒業、在学中文官高等試験に合格した。33年東京府参事官になったが、35年文部省に入り、教育行政一途の官界生活を続けた。文部書記官、36年大臣秘書官を経て39年外遊後、45年に文部省専門学校局長、大正13年には、文部次官に昇進した。
昭和2年、京城大学総長、4年九州帝国大学総長になった。5年12月~13年2月貴族院議員に在任。昭和15年1月、米内光政内閣の文部大臣に抜擢されたが、わずか6か月にして7月22日内閣が総辞職したため、教育行政の責任者として十分に実力を発揮できなかった。15年7月~20年枢密顧問官。昭和20年9月28日、73歳で鎌倉の自宅で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
野村 義弘 ・ 郷土の先人 164
野村 義弘 (のむら よしひろ)
明治30年~昭和45年(1897~1970) 教育者・植物学者、俳人。
明治30年3月30日、西宇和郡三瓶村に生まれる。旧姓菊池。俳号螺岳泉。大正6年、県立農業技術員養成所卒業。伊方町農業普及員として勤務。後に私立松山女学校、私立伊方農業学校、県立川之石高校等の教員を歴任し、昭和29年3月伊方中学校を退職。
この間、佐田岬半島周辺の植物研究に没頭し、同29年、伊方の海中でクロキヅタを発見。出石寺付近では、トゲヤマルリソウを発見した。昭和34年、日本シダの会に入り、多くの植物標本を提出した。
一方、俳句にも親しみ、「鹿火屋」「睦月」の同人として活躍した。句集『クロキヅタ』があり、伊方の公園に「牛は牛 蟻は蟻と歩いてゐる」の句碑がある。昭和45年9月23日死去、73歳。墓地は伊方町湊浦にある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
遠山 憲美 ・ 郷土の先人 163
遠山 憲美 (とおやま のりよし)
嘉永2年~没年不詳(1849~) 近代盲唖教育の先駆者。
嘉永2年、宇和島追手通に宇和島藩士の子として生まれる。明治10年12月、京都府下京区に止宿する。遠山は、京都府知事に「盲唖訓黌設立ヲ促ス建議意見書」を提出し、「盲唖其他ノ廃疾ト雖モ元卜天賦ノ才力ハ皆人同シ」と訴えた。
明治11年5月、我が国最初の盲唖学校京都盲唖院が設置され、遠山は同院に奉職したが、盲唖院創設上最大の功労者古河太四郎との間で意見の相違が生じ、在職7か月で院を去った。
我が国の特殊教育草創期の功労者の一人である。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
玉井 安蔵 ・ 郷土の先人 162
玉井 安蔵 (たまい やすぞう)
天保6年~大正9年(1835~1920) 県会議員・衆議院議員。
天保6年6月1日、宇和郡清水村(現鬼北町)で庄屋玉井常四郎の長男に生まれた。維新後、父のあとを継いで里正・戸長を努めた。明治13年3月、県会議員となり、25年までほぼ連続して県会にあった。15年9月郷里清水村農民から無役地返還を求めて訴えられ、地主側の代表として無役地事件にも関係した。明治21年、国会開設を前に本県でも政治運動が活発になると、宇和島地方の大同派の有力者として坂義三・山崎惣六らと党勢拡張に奔走した。25年2月の、第2回衆議院議員選挙第6区で自由党から推されたが堀部彦次郎に敗れた。27年3月の第3回衆院選挙で当選したが、僅か3か月で衆議院解散となり、27年9月の第4回選挙には資金難を理由に出馬を辞退した。
その後、宇和島運輸会社・愛媛県農工銀行・宇和島銀行などの重役や郡農会会長を歴任し製紙会社を創設するなど、南予の産業経済の発展に努めた。かたわら軍人遺族授護会・海員披済会など、福祉の増進にも貢献した。晩年家を嗣子に譲り、隠居して宇和島に居住した。大正9年1月5日、84歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
瀧本 誠一 ・ 郷土の先人 161
瀧本 誠一 (たきもと せいいち)
安政4年~昭和7年(1857~1932) 日本経済学史の先駆者。
安政4年9月27日、江戸麻布の宇和島藩邸に生まれた。明治7年頃、宇和島の不棄学校で中上川彦次郎について英学を修め、明治4年慶応義塾卒業生の資格をもって、和歌山の自修私学校に英語教師として赴任した。明治20年、末広重恭の紹介で「朝野新聞」に入り、大同団結運動に共鳴して政治運動に参加。やがて「東京公論」の主筆として、条約改正問題などに鋭い論陣を張った。傍ら日本経済学史研究のための資料集めを続けた。大正3年、同志社大学教授、7年法学博士の学位を受け、8年慶応義塾に招かれて、生涯同大学で研究生活を続けた。
この間、東京商科大学や立教・専修大学の講師・教授を兼ねた。昭和7年8月20日、74歳で没した。著書に。『日本経済史』『日本経済学史』『日本経済思想史』『日本貨幣史』などがある。また『日本経済叢書』39冊、『日本経済大典』54冊などを編纂して、江戸時代の経済、社会思想関係の学者と著作を紹介し、日本経済学界のパイオニアとしての業績を残した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
清家 伊之松 ・ 郷土の先人 160
清家 伊之松 (せいけ いのまつ)
大正4年~昭和42年(1915~1967) 畜産功労者。
大正4年10月23日、北宇和郡下灘村嵐(現宇和島市津島町)に生まれ、和牛の優良種雄牛の育成調教に力を尽くし、その改良増殖に大きく貢献した。
若冠18歳頃より畜牛に関心をもち、相牛学等を修めた。自ら本県和牛の源流となった三崎牛を導入するほか、県外先進地よりも優良基礎牛を導入して、地域の和牛の改良増殖に先駆的な役割を果たした。さらに種雄牛育成、調教の緊要性を痛感し、北宇和郡海岸地域を県下の種雄牛供給の一大基地として育成すべく下波地区などと相提携して、県下唯一の候補種雄牛育成組合を組織した。和牛の改良振興に寄与した功績は多大なものがあった。
牛の調教馴致には、独自の手法をもった。調教された牛の温順怜俐な様相と人牛一体意の如く行動する候補種雄牛群は、共進会場での華として多くの人々の賞賛の的であった。
昭和22年若冠32歳で地元下灘村村会議員に押されて以来、合併後の津島町町会議員を通算17年間(この間に副議長にもなる)務め、昭和40年には、再建を期待されて下灘農協長となり献身的努力を重ねた。だが、不幸病魔の冒すところとなり、昭和42年8月28日、惜別の人となった。51歳。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
須藤 南翠 ・ 郷土の先人 159
須藤 南翠 (すどう なんすい)
安政4年~大正9年(1857~1920) 言論人,読物小説家。
安政4年11月3日、宇和島城下鎌原通(現宇和島市)で藩士須藤旦の次男に生まれた。父は幕末維新藩の重臣として活動した。本名光輝。幼時期は父について江戸に行き、麻布竜士町の藩邸に育った。維新後父の退官により帰国、明倫館・愛媛県師範学校に学び、三津浜小学校の教員を務めた。
明治11年3月東京に出奔、土屋郁之助と名乗り放浪。「有喜代新聞」の活版工から取材記者となり、時評を書く傍ら絵入り連載小説の執筆を始めた。「有喜代新聞」改称の「開花新聞」「開進新聞」の毒婦物諸作で読物の代表作家の名声を博し、「読売新聞」の饗場篁村と共に二巨星と称された。
明治30年から著作生活に入り、作品を「新小説」や「国民之友」に発表。『こぼれ松葉』などを次々と出版した。代表作は、『新粧之佳人』『照目葵』など。大正9年2月4日、62歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
白井 雨山 ・ 郷土の先人 158
白井 雨山 (しらい うざん)
元治元年~昭和3年(1864~1928) 彫刻家。
元治元年3月1日、宇和郡鬼ヶ窪村(現西予市宇和鬼窪)の米穀商佐平の四男に生まれ、本名保次郎、真城、晩翠軒・環中子とも号す。宇和島南予中学入学後、松尾馬城に南画を学び、明治18年上京。
本田錦吉郎画塾に洋画を学び、渡部省亭・望月玉泉に日本画を学ぶ。明治22年、東京美術学校彫刻科に入学、特待生となる。卒業後、石川県立工業高等学校教諭を経て、明治31年、母校東京美術学校助教授に帰任。従来の木彫科に加え彫塑科を新設。彫塑界の先達として、北村西望・建畠大夢などの英才を育成した。明治34年より2年間渡欧、大正7年同校教授となり文展・帝展審査員として活躍した。
退官後は、水墨画に没頭し超脱の画境を歩んだ。郷里〈現西予市〉に「神武天皇東征の像」を遺す。昭和3年3月23日、64歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
先山 千兵衛 ・ 郷土の先人 157
先山 千兵衛 (さきやま せんべい)
明治30年~昭和38年(1897~1963) 遊子村村長,漁業組織功労者。いりこの共販体制や購買事業等を県下に先がけて実施するなど、漁業協同組合活動の基礎を築いたほか、村政においても教育、交通、地域産業の振興に尽くした功労者。
明治30年7月10日、北宇和郡遊子村(現宇和島市遊子)で父廣吉、母ハヤの長男として生まれる。父廣吉は、半農半漁を営み生計を立てていたが、漁業は磯繰網の操業を行っていた。千兵衛は、明治37年8歳にて遊子小学校に入学、6年間の学習後、さらに高等小学校に2か年学んだ。学校卒業後漁業に従事したが、その後大網(いわし船びき網)の村君(網子の指揮者)を務めたりして、漁業の面では指導的役割を果たしていた。
大正12年11月、遊子村助役に選任された後、昭和2年8月、遊子村村長に就任した。その後、20年間の長期にわたって村政をつかさどり、その間小学校の統合を行い教育の充実を図ったほか、地区内初の村道を建設して地場産業の振興に努めた。この間、昭和18年7月には遊子漁業会及び遊子農業会の会長を兼任し、漁業と農業両面において天与の恵を地元従事者に自覚させ、この活用を強く訴えた。これらの功績により、昭和20年6月20日勲六等瑞宝章を受章した。
昭和21年5月、遊子村村長を退職し、漁業、農業両会長も辞任したが、以後も地元住民の福祉向上に全力を傾注した。昭和27年10月、漁業協同組合長、同30年5月農業協同組合長にそれぞれ再選され、以後36年までの在職期間中、組合事業活動に尽力した。特に漁業の面では、他に先がけてまき網漁業の漁獲物であるいわしを加工した「いりこ」を、漁業協同組合の共販体制の中に取り入れた。それとともに、漁業資材の購買事業や信用事業を行うなど、戦後の民主化を目ざした新漁業法と、水産業協同組合法の立法精神に則った組合事業活動の基礎を確立した。また、まき網漁業の組織についても平等の出資、就労、利益配分を基本方針として再編し、連帯の人間関係と生産体制を実現させた。
幼少の頃より聡明にして、漁業の中にも科学を導入するなど研究心はきわめて旺盛なものを持ち合わせていた。長じてからは、生来の人情味に加えどこに行くにも常に着物を着用するなど,自己の信念を貫く一徹さと、一朝ことあるときは剛胆をもってこれを早期解決するなどの両面を備えていた。
昭和38年1月31日、65歳にて没。彼の精神は現在の漁業協同組合の中にも生きており、地元ではその功績を称えて昭和53年7月10日、頌徳碑を建立している。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
佐々木 長治 ・ 郷土の先人 156
佐々木 長治 (ささき ちょうじ)
明治27年~昭和45年(1894~1970) 実業家。豫州銀行などの頭取で、県政財界の中心人物であった。衆議院議員・貴族院多額納税者議員になり、戦後は県政界の重鎮となった。
明治27年2月10日、西宇和郡伊方村(現伊方町)に生まれた。父長治(高二郎)は、立志伝中の実業家・社会事業家として知られた。宇和島中学校を経て大正5年、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業。亡父の名を継ぎ、西南銀行(伊方村)頭取を最初に、第二十九銀行(川之石町)、豫州銀行(八幡浜市)、伊予貯蓄銀行(松山市)の頭取を歴任。南予地方の銀行をまとめて、伊豫合同銀行への橋渡しをした。
大正13年5月の第15回衆議院議員選挙に第6区から政友会公認で立候補、憲政会の卯之町銀行頭取・本多真喜雄と一騎打ちを演じ、わずか12票差で辛勝した。次の昭和3年2月の第16回衆選挙で再選されたが、昭和5年2月の選挙には、実業に専念するため立たなかった。
昭和14年9月には、貴族院多額納税者議員に選ばれ、22年5月まで在職した。昭和15年9月~16年7月の短期間であったが、八幡浜市長を引き受け、食糧増産対策の推進に努力を払った。後任に野本吉兵衛を推挙して、市政を引き継いだ。戦後の政界再編成で結成された愛媛民主党の代表者に推され、昭和26年4月の県知事選に出馬して、青木垂臣・久松定武と三つ巴の選挙戦を演じたが久松に敗れた。昭和30年1月の県知事選にも再出馬の動きを示したが、県政界が久松再選支持に傾いているのを察して取り止め、これを機に政界を引退した。
父の遺した育英事業に尽くし、県商工経済会議会頭・県公安委員会委員長など数多くの要職についた。昭和45年9月13日、76歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
佐々木 長治 ・ 郷土の先人 155
佐々木 長治(高二郎) (ささき ちょうじ)
慶応3年~大正3年(1867~1914) 実業家・社会事業家。鉱山を開発して伊方実践農業学校を創立、育英に私財を投じた。
宇和郡伊方浦湊浦(現西宇和郡伊方町)で生まれた。幼名高二郎、襲名して長治と改めた。はじめ父の業を継ぎ呉服雑貨商を営んだ。16歳で酒造業を興し、明治20年に成安鉱山を開発、40年には鯛の浦鉱山を堀削して実業界に雄飛し、村を潤した。
明治30年12月、西南銀行を設立して頭取となり、宇和紡績・伊予製鉱・川之石汽船・豊後鉄道会社などの創立に関与、さらに朝鮮の鉱山開発も手がけた。大正2年、基金15万円で佐々木愛郷会を創設し、伊方実践農業学校を開校して、授業料を取らず教科書・実習服の無料貸与で郷土子弟の育英に力を尽くした。
大正3年5月20日47歳で没し、村人はその早過ぎた死を惜しみ功績を称えて、伊方農業学校(現伊方中学校)校庭に「愛郷報国」の記念碑を建てた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
佐々木 進 ・ 郷土の先人 154
佐々木 進 (ささき すすむ)
大正 4年~昭和55年(1915~1980) 実業家。映画興産・観光レジャー経営で知られた。
大正4年8月20日、西宇和郡三島村蔵貫(現西予市三瓶町)で三好菊市の次男に生まれた。苦学して日本大学を卒業、松竹株式会社に入社した。結婚後、夫人の家を継ぎ、佐々木姓を名乗った。
昭和17年独立して、佐々木興業株式会社を設立。優れた行動力と手腕を発揮して、映画館経営に乗り出し、映画全盛の昭和35年ころには東京都内で36館を経営した。タクシー会社、金融、不動産部門、観光レジャー産業など、多角経営を行った。多くの芸能人を後援して交際を続け、全国興行組合連合会長などに就き、昭和32年全国興行環境衛生同業組合連合会を設立して、その会長に推された。
故郷を愛し、小学校にピアノを寄贈したり、建設資金に多額の寄付をするなどした。昭和46年に、三瓶名誉町民第1号に選ばれた。53年には、映画興行界特別功労大賞を受けた。昭和55年11月12日、65歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
小西 荘三郎 ・ 郷土の先人 153
小西 荘三郎 (こにし そうざぶろう)
元治2年~大正11年(1865~1922) 実業家・県会議員。
元治2年4月2日、宇和郡岩松村(現北宇和郡津島町)で素封家小西家の9代当主に生まれた。幼名金吾次郎。明治12年4月15歳で相続、荘三郎と改めた。家業の清酒浪造・製蝋業を営む傍ら、明治25年3月県会議員になり、29年3月まで在職した。明治27年伊予物産会社、33年岩松銀行を創設して社長・頭取になり、第二十九銀行・宇和島銀行・南予運輸会社・宇和島製紙会社などの取締役を歴任した。
県下有数の資産家で、貴族院多額納税者議員互選人であったが、多額の私財を村の発展に投じ、また日本赤十字社・大日本帝国軍人遺族救護議会に協賛して社会事業に尽し多くの表彰を受けた。実業家・県会議員の小西萬四郎は分家であり、両小西家で岩松町の財源の過半を賄なったと言われる。大正11年8月13日、57歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
小西 惣三郎(五代) ・ 郷土の先人 152
小西 惣三郎(五代) (こにし そうさぶろう)
安永元年~文政5年(1772~1822) 宇和島藩岩松村(現津島町)の豪商。幼名政吉、通称惣三郎、諱は次名。
安永元年小西家三代久八の三男として生まれ、寛政12年(1800)、兄安太郎の跡を継いだ。同年、御目見、苗字帯刀御免、扶持も以前のとおり5人扶持を給され、庄屋格の家格を継承した。
小西家は、貞享元年(1684)初代惣兵衛が岩松に酒造業を開設したことに始まる。三代久八の時、苗字帯刀を許され、質商も開始し御荘でも酒造業をはじめた。四代安太郎の時、御目見・庄屋格式が許され、新田開発にも着手している。
五代惣三郎の代には、さらに家業が拡張された。文化元年(1804)には、製蝋業を許可され、後には蝋座頭取を務めている。翌文化2年には、長崎新田(現御荘町)開発の許可が下り、同4年には兄安太郎が着手した江湖新田(現御荘町)も完成した。その間、凶作で鉄人が出る状況であったので、人夫に過分の米を支給し損得を度外視して飢人救済第一に新田開発を進めたという。また藩の肝いりで完成した近家塩田(現津島町)は、その建設によく協力したということで同4年小西家に下賜された。こうして同家は、酒造業・質商・新田開発とその経営、製蝋業・製塩業を営む豪商となった。
文化13年(1816)、藩が東海道筋河川改修の御手伝普請を命じられた時、金1500両を献金し、その褒美として中之間御取扱となり外笹の裃を賜っている。このほか、その財力で度々の献金、あるいは地域の賑恤を行っている。
文政5年3月4日、岩松で没。行年50歳。臨江寺(現津島町)に葬られた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
奥山 又三郎 ・ 郷土の先人 151
奥山 又三郎 (おくやま またさぶろう)
明治6年~昭和19年(1873~1944) 宇和海におげる本格的な巾着網漁業(まき網漁業の一種)の導人者であり、地域振興の功労者。
明治6年6月3日、西宇和郡三机浦(現西宇和郡伊方町三机)で父伊三郎、母ヨシの5男2女のうち次男として生まれる。父伊三郎は鰮大網(いわし曳網)を操業する傍ら農業を営んでいた。又三郎は、長男が夭折したため若くして家業を継ぐとともに、26歳にして村会議員に選ばれた。興した諸事業のうち最大のものは、「奥山式巾着網」の開発であろう。米式巾着網漁業は、本県では宇摩郡へ明治19年に、また宇和海へは同29年9月巾着網試験の形で導入されたが、操業未熟、網構造の不備(長さや幅不足など)もあって不成功に終った。さらに、同32年には越智郡、南宇和郡でも試験操業されたが、いずれも試験の域を出なかった。
実用化に成功したのは、明治36年に県水産試験場が実用化試験のため漁業者に巾着網漁具を貸与し、南宇和郡東外海村で操業させたのが最初であった。この年三机村の奥山又三郎は、生来の研究熱心から自ら県水産試験場に出向いて指導を受けたうえ、同年8月には福岡県藍の島に行き、漁夫として20日間余り従事した。さらに徳島県撫養にも行って10日間余り研究を積んだ後、帰郷して巾着網を整調し実用化に乗り出した。この実用化試験操業は、三崎半島の宇和海沿岸海域において行われたが、3~4日間も魚群を求めて航行中、大久浦(現瀬戸町の一部)でいわしの大群を発見し、網を投入したところ一網で漁船3隻分に及ぶ豊漁の成績が得られた。
又三郎は漁法のほか、漁業環境の整備に意を注ぎ、昭和40年には金刀比羅山に魚見台を設けた。ここから自宅と須賀の網干し場を結ぶ2km間に、当時としては画期的な私設電話を架設し、魚群の発見から出動までの迅速化を図った。この高効率の漁法を見て、37年には三机村に5統、38年には真穴村に7統が操業されるまで普及していったが、大々的な発達を遂げた大正年代における、巾着網漁業の先達としての奥山又三郎の功績は非常に大きいものかある。
豪快な気性の持ち主であった反面、人情家でもあり、多くの地元民から慕われた。漁業以外でも、江湖の奥山夏柑園を拓くなど柑橘の先駆者でもあり,地方自治の面でも地域に尽くした。明治39年2月~大正2年4月まで第5・6代三机村収入役となり、郡会議員を経て第10代(大正8年12月~12年12月)及び第13代(昭和11年4月~同19年4月)と2期三机村村長に就任し、村政に多大の貢献をした。昭和19年4月5日、70歳で没した。
村民は氏の徳をたたえるため昭和18年4月、三机村(現伊方町)上倉に頌徳碑を建立している。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
田中 九信 ・ 郷土の先人 150
田中 九信 (たなか きゅうしん)
明治17年~昭和50年(1884~1975) 医師。生涯を辺地医療に尽くした。
明治17年4月16日、北宇和郡三浦村(現宇和島市)の庄屋の家に生まれた。明治41年京都府立医専卒業後、北里研究所員などを経て、大正6年朝鮮釜山府で開業、同府医師会長を務めた。この間、学費をためてスイスのベルン大学に留学した。また故郷のため昭和16年図書館建設資金を寄付、蔵書を送り続けた。
明治20年郷里に引き揚げ、西三浦に診療所を開設、段畑農業の重労働のため農民が下股変形と背柱湾曲異常(オー・パイン)になっているのに気付き、その治療に専念した。データを集めて『百姓病オー・パイン』(県農村経済研究所刊)を著して解明した。また西三浦公民館長として、「西三浦ユートピア・プラン」の論文を自費で懸賞募集するなど、社会教育にも貢献した。辺地医療の父として日本医師会最高優功賞・愛媛新聞賞などを受賞した。昭和50年5月31日、91歳で没。その徳を敬慕する地域民は、同地の加茂神社に胸像を建てた。宇和島市の「名誉市民」である。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
清家 吉次郎 ・ 郷土の先人 149
清家 吉次郎 (せいけ きちじろう)
慶応2年~昭和9年(1866~1934) 政治家。吉田町長、県会議員に20年勤続。その弁舌は名物的存在であり、後に衆議院議員になった。
慶応2年9月14日、宇和郡喜佐方村(現宇和島市吉田町)に生まれた。無逸と号した。吉田郷校に学んで愛媛県尋常師範学校に入学、明治22年卒業した。大洲尋常小学校を振り出しに、喜佐方尋常小学校の訓導などを勤め、28年南宇和郡立高等小学校校長となった。明治33年、南宇和郡視学を拝命、以後44年まで各郡視学を歴任した。
明治44年9月県会議員に当選、昭和5年2月辞職するまで県会に議席を占めた。政友会の闘将として博識と鋭い論鉾で長広舌を展開、県会の名物的存在であった。〝吉田のあんやん〟と親しまれ、反対派の村上紋四郎・武知勇記との論戦は、県会の活況を呈し名物となった。その間、大正8年12月~10年12月、12年10月~12月、昭和2年10月~12月の三度議長に選ばれた。県会議員の傍ら、大正9年以来昭和9年死去するまで郷里吉田町の町長を務め、同郷乳兄弟の山下亀三郎や村井保固の援助を受けて吉田中学・山下高等女学校設立,吉田病院の開設など他町村に見られない教育・福祉施設の町営を実行、吉田町と清家町長の名声を高めた。
昭和3年2月、初の普通選挙である第16回衆議院議員選挙に、政友会公認で第3区から出馬したが落選した。次の5年2月の第17回衆議院議員選挙に再出馬して当選、念願の国会に進出した。7年5・15事件直後の議会で、荒木貞夫陸相に論争を挑み一躍有名になった。昭和7年2月の第18回衆議院議員選挙で再選され、9年1月、がんに冒され病をおして国会の開院式に臨み、翌日入院手術したが効無く、郷里で死にたいという希望を容れて護送された。神戸港で見送りの山下亀三郎に、「徹頭徹尾貴君の御世話になった。これで御別れする」の永別の言葉を残し、昭和9年2月23日、67歳で吉田町の自宅で没した。町役場の前庭に銅像が建てられている。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
高橋 作一郎 ・ 郷土の先人 148
高橋 作一郎 (たかはし さくいちろう)
明治20年~昭和51年(1887~1976) 実業家。宇和島市長。西条市長。
明治20年2月17日、北宇和郡小松村(現鬼北町)で松本伸治の四男に生まれ、延川の高橋家の養子になる。郵便配達、西条警察署巡査などをしながら独学、明治44年上京して日本大学法科(夜間)に学ぶ。卒業後、再び警察官となり、大正15年39歳で松山警察署長に就任。昭和2年警察界を去り宇和支庁長となり、同5年から8年まで宇和島市長を務め、次いで10年、西条町長に迎えられた。倉敷レーヨンの誘致に成功するなど、東予工業地帯の発展に力を尽くした。昭和16年の市制施行により、初代西条市長として18年間にわたり地方自治行政に貢献した。この間、昭和10年に南豫無尽の取締役となり、金融界とのつながりをも、21年に愛媛無尽取締役会長、23年に社長となり、26年愛媛相互銀行移行後も社長・会長として同行発展の基礎を築いた。
愛媛選挙管理委員会委員長などの要職を歴任した。高い識見と優れた先見性で功績をあげた。昭和36年黄綬褒章、昭和43年県功労賞など数々の賞を受けた。昭和51年5月6日、89歳を以て没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
高畠 亀太郎 ・ 郷土の先人 147
高畠 亀太郎 (たかばたけ かめたろう)
明治16年~昭和47年(1883~1972) 実業家、県会議員・衆議院議員・宇和島市長。
亀太郎は、明治16(1883)年2月6日、北宇和郡宇和島町裡町4丁目(現宇和島市)で、父和三郎、母千代の8人兄弟の長男として生まれた。和三郎は小間物商と生糸商を営む商人、生活はそれほど富裕ではなかったが、衣食に困るようなこともなかった。明治10年代の宇和島町は、町全体がまだ徳川時代の因習から抜けきれていなかつた。父は教育には理解がなく、商家の子供には学問は要らないという考えの中、亀太郎は育てられた。
明治22年、宇和島尋常小学校に入学した。小学校時代の亀太郎はおとなしかったが、勉強は良くできた。記憶力も抜群だった。26年3月、尋常小学校を首席で卒業し、町立宇和島高等小学校に進んだ。高等小学校時代で地理、歴史、理科等を学び、特に志願して英語を学んだ。英語の教科書は原書で、「ナショナルリ-ダ-」1886年版だった。明治30年3月、高等小学校を首席で卒業し、総代として自作の答辞を読んだ。
亀太郎は、3年生の終わりの29年の2月に、宇和島高等小学校の生徒で組織する養志会(修養団体で、月に一度会員の親睦をはかり演説討論会を開催するなどの活動を行なう)に入会し、その4月に幹事長となった。林巳之松校長並びに養志会会長・柴田熊太郎(教員)と意見が合わず、一時養志会を退会するが、再び入会し、精力的に内部改革に務めた。小学時代からリ-ダ-ぶりを発揮した。亀太郎は、生涯日記を綴ったが、 高等小学校の4年の終わりの、明治30年1月1日から書きはじめられた。その書き出しは、「明治30年、丁酉ノ歳ナリ。吾将来立身上最必用ニシテ且最注意ヲ要スベキ年ナレバ、本年ヨリハ一層業務ヲ勉励シ、他日完全ニシテ有為ノモノトナランコトヲ期セリ」(明治30年1月1日)で始まる。冒頭からして、亀太郎の早熟にして、志の高さが伺われる文章となっている。
父和三郎は、宇和島では比較的大きな生糸買入商だった。愛媛の製糸業は明治維新以降生成・勃興し、特に明治20年以降拡大・躍進したが、中でも大洲と宇和島地方が中心だった。宇和島では、明治22年に小笠原長道が、南予製糸株式会社を創設し、蒸気機関使用の製糸工場の最初となった。次いで、23年に赤松伊平(喜佐方出身)が製糸業(足踏器械)を開始し、26年に新工場を設立した。また、同年竹葉覚治も竹葉製糸場を始めるなど、次々と製糸業が勃興・発展した。製糸業の発展と共に生糸取引も発展した。父和三郎の家業は、当初は小間物商が中心だったが、製糸業の発展に対応し、明治28年には生糸商専業に転じ、取引を拡大させた。また、31年には赤松伊平製糸場の購繭主任ともなり、家業を拡大させている。
亀太郎は、明治30年3月に宇和島高等小学校を卒業すると同時に、父和三郎の手伝いをさせられた。14歳になったばかりであった。家業の主要業務は、製糸家から生糸を仕入れ、人を雇って捻糸を行い、括造をして、出荷することであった。日記には、この家業、手伝いのことが毎日書かれている。亀太郎は厳しい父の下で、小僧役と計算方を任され、修行のために徹底的にこき使われた。亀太郎はこんなことをしていてよいのかと真剣に悩み、一度は宇和島を出ようとしたこともあった。
そのような中、亀太郎は、明治34年から生糸の生産・製糸業にも乗り出し、足踏器械2台で、製糸を始めている。そして、明治36年5月には、足踏み器械6台を導入し、製糸業を拡大させた。だが、亀太郎の始めた製糸業は、繭の買いすぎ、繭の解舒不良等により大失敗をした。父和三郎にひどく叱責され、足踏製糸業を中止した。
明治37年9月、日露戦争の年、父和三郎が40歳の若さで亡くなった。製糸業は別名「生死業」ともいわれ、糸価の乱高下が激しく精神的苦労は絶えなかった。その結果の死であり、今でいう過労死に近かった。亀太郎が、21歳のときのことだ。母、弟妹、8人の生活が、長男の亀太郎の肩に掛かってきた。亀太郎は父のあとを継ぎ必死で働き、節約し家計を支えた。幸い、父の築いた得意先から生糸を持ち込む製糸家や仲買人は後を絶たず、家業の生糸取引は比較的順調に進んだ。また、赤松伊平製糸のための繭買いも、亀太郎が引き継いだ。亀太郎は持ち前の誠実・堅実な性格と着実な仕事ぶりにより、信用を得て宇和島でも一番の生糸商人となった。出荷先は京都、福井、石川、愛知、博多、大分等で、国内用であったが、明治の末には、横浜へ出荷し、輸出に振り向けている。
亀太郎は、大正4年6月より生糸商をやめ、北宇和郡八幡村中間(なかいだ)の地にて新しく製糸業を始めた。亀太郎の、実業家としての本格的なスタートであった。当初は50釜で出発したが、6年には70釜、10年には100釜へと、着実に規模拡大している。また、12年には技術革新を図り、大正式煮繭器、沈繰用繰糸機を導入し、煮繰分業、繰糸法も沈繰に転じた。さらに、昭和3年に新工場を建設し、千葉式煮繭器、半沈繰用繰糸機を導入した。8年にも新工場を設立し、小岩井式多条繰糸機を導入した。宇和島でも有数の製糸家に成長した。公的分野でも、昭和2年に愛媛県製糸同業組合の第3区の支部長となり、7年には愛媛県製糸業組合長になるなど、名実共に宇和島及び愛媛のリ-ダ-になった。
亀太郎は、友人が中学に進学したのに進学できず、悔しい思いをしていた。だが、亀太郎の偉大さは、この悔しさをバネに常に勉励努力したことである。亀太郎は小学校卒業後、父の家業を手伝う傍ら独学に励んだ。後年、この独学時代を回顧して「夜、人静まって後、覚えず暗涙に咽んだことも幾く度か。今に見て居れ! とは云うものの、忘れんとして忘れ難きは学校の夢である。自分より成績の劣っていた多くの級友が富家に生れたお陰で、親の理解のあったお陰で中学へ行き、やがて大学へも進んでいくのに、何とて自分はこのまま朽ち果てねばならないのか。天の一方を睨んで恨んで見ても仕方がない。よし独学で行こう。自分はどうしても学問を棄て得ない。叶わぬまでも、及ばぬまでも独りでやれるだけのことはやってみよう。人が百歩行くとき自分は十歩行ってもよいではないか。人が十里進んだあとに自分は一里を進んでよいではないか。停止するよりは一足ずつでも前進したい。昼は稼業に暇がなくとも、夜は書を読むことを許されなくとも、寝る時間を割くことが出来るではないか。夜の10時から1、2時間眠る時間を割いて勉強することを決心した。好きでやることだから少しも苦痛とは思わない」と。(高畠亀太郎『77年の回顧』215~216頁)
向学心のあった亀太郎は、明治41年から早稲田大学の通信教育を受けた。同年には中学程度の商業講義を、42年には保険、海運、鉄道、民法等の講義を、43年にはさらに進み、政治経済学科の講義を学んでいる。このように、亀太郎は家業の傍ら、勉学に励んだ。大変な努力家、刻苦勉励の人であったことが分かる。
日清戦争後の世の中の変化で、特に注目すべきは青年の台頭であった。明治34年1月3日、宇和島の青年実業家、河野円太郎(船具魚具商)、松井房太郎(荒物肥料商)の呼びかけにより、宇和島実業青年会が設立された(後、宇和島商工会・商工会議所)。亀太郎もこの呼びかけに応え、この会に当初から参加した。実業青年会の初代会長には、宇和島の財界の中心人物・堀部彦次郎(宇和島運輸会社頭取)を仰ぎ、副会長は岩村藤一郎(宇和島銀行員)が就任した。その直後、同年4月1日の春季大会にて、新会長は黒田孝太郎(本町1丁目、生臘製造業、石炭販売業)に、副会長は都築修蔵(本町4丁目、織物製造業、青年実業家)に代わっている。
亀太郎は、実業青年会で次第に頭角をあらわし、その月次会においてよく演説をした。例えば、明治34年3月13日、実業道徳に関する演説を行っている。投機を戒め、堅実をもって旨とする亀太郎の人柄が伺われる演説だった。4月15日の月次会では、亀太郎は黒田会長により評議員の一員に指名された。亀太郎の最初の公開の場での演説は、明治34年10月9日、18歳の時である。追手通り融通座において、宇和島実業青年会の大演説会が開かれ、都築修蔵、大岡鶴吉、小川愛三郎、吉条茂吉、清家丑太郎、中臣風浪、黒田孝太郎らと共に、亀太郎も「実業上ノ道徳」と題して演説している。当時、治安警察法が制定されたばかりであり(明治33年3月制定)、未成年者および女子の政談演説会参加は禁止されていたが、参加だけでなく演説をするなど、亀太郎並びに宇和島実業青年会の勇気、革新的姿勢が窺われる。実業青年会は、その機関紙「実業青年」を明治35年9月から毎月発行するが(ただし、36年5月で廃刊)、亀太郎がその編集を創刊号からずっと担当した。
亀太郎は政治に早くから関心を持ち、政治活動・選挙活動を行った。政治的立場は、当初、政友会系ではなく、反政友会の憲政本党系(旧進歩党系)、愛媛進歩党系であった。明治40年、中央から政界革新会の島田三郎らの議員が宇和島にやってきた。亀太郎らはその演説会の世話をし、自らも演説している。24歳の時だ。亀太郎は憲政擁護・護憲派であったようだ。同じ年の40年9月25日、第15回県会議員選挙があった。北宇和郡の定数は4名。政友会から長滝嘉三郎ら4名が、反政友会系の進歩党から小笠原長道ら2名が立候補した。亀太郎は地縁の関係から長滝氏を、主義の関係から小笠原氏を応援している。日記には、亀太郎の旺盛な選挙活動ぶりが書かれている。しかし、この県会議員選挙は政友会の圧勝で、政友会の長滝嘉三郎は2位で当選し、亀太郎らが推した進歩党の小笠原長道は、残念ながら次点だった。また、同時期の9月30日に郡会議員選挙があった。亀太郎は、この郡会議員選挙に際して、自ら発議し、実業青年会の都築修蔵を青年代表として候補者に擁立し、精力的に選挙活動を行い当選させている。さらに、翌41年1月に宇和島町会議員選挙があった。この時も亀太郎らは、妹ハルの夫で、中村紙店経営の中村惣八を青年代表として町会議員一級の補欠候補者に擁立し、見事初当選させている。
亀太郎らは国政選挙でも、支持政党の憲政本党のために、積極的に選挙活動を行った。明治41年5月15日、第10回衆議院選挙のとき、愛媛県では、郡部で政友会から夏井保四郎・高山長幸・渡辺修・武市庫太・森肇の5名が、憲政本党から才賀藤吉・田坂初太郎・村松恒一郎の3名が立候補した。亀太郎は、宇和島出身の憲政本党の新人・村松恒一郎(政友会の山村豊次郎の兄)を推薦し、選挙運動を積極的に行った。そして、村松は2557票の得票をとり、最下位だったが7位で初当選した。村松の当選は、亀太郎ら青年の貢献が大きかった。
明治43年3月13日、犬養毅らの憲政本党、河野広中らの又新会等の各派は、政友会に対抗するために非政友の合同を図り、立憲国民党を結成した。従来憲政本党支部の役割を果たしていた愛媛進歩党が、実質上国民党の愛媛支部になり、亀太郎も国民党に属した。そして、亀太郎本人も、明治44年1月、宇和島町の国民党の町会議員に立候補し、初当選した。27歳の時である。政治家亀太郎の本格的な活躍が始まった。町会議員は以後再選を重ね、大正8年9月には国民党から県会議員に初当選し、これも以後再選を重ねた(当初は国民党でしたが、後に、政友会に入ります)。また、大正10年には宇和島町の市への昇格に伴い選挙が行われ、市会議員になった。町議と県議、市議と県議の兼務、多忙な政治生活であった。宇和島は政友会と憲政会・民政党との政治的対立の大変激しい土地だったが、亀太郎はその渦中に、またその先頭に立ち、有力な政治家に成長を遂げていった。そして、昭和12年には推されて、衆議院議員、さらに、14年には宇和島市長にもなった。ここでも代議士と市長を兼務している。20年には、大政翼賛会の議員として敗戦を迎えた。なお、選挙では負け知らずだった。
以上のように、亀太郎は若い頃から、町会から国会まで、すべての選挙で積極的且つ果敢に政治活動・選挙活動・議員活動を行った。
宇和島のキリスト教の発展は亀太郎抜きには考えられないとも言われる。亀太郎のキリスト教との出会いは、明治36年10月、20歳の時に、商用で吉田町へ船で行ったとき、船上での牧師との論争だった。この時は、神の存在を否定する論陣を張った亀太郎だったが、その後、中之町教会や組合教会に出入りするようになり、次第にキリスト教に接近していった。そして、明治37年9月の父和三郎の死も契機となったと思われるが、ますますキリスト教を信じるようになり、38年4月23日、22歳の時に洗礼を受けた。その後、家業の傍ら、教会の活動に足繁く通い、世話役活動も行なっている。また、亀太郎は忙しい中でも、文化人でもあった。俳句、囲碁、謡曲、書道、川柳等をたしなみ、また芝居、活動写真等もよく見に行った。優れた俳人でもあり、句集を2冊出している。宇和島では、都築修蔵ら実業青年会のメンバ-たちが、家業の傍ら熱心に句会を開いていた。亀太郎も、明治38年以降、よく句会に出ている。日記を読むと、亀太郎並びに宇和島の実業家は余裕を持ち、豊かな精神生活を営み、その文化水準が高かったことを窺い知ることができる。
亀太郎は明治42年8月4日26歳のときに、宇和島町大字本町の小泉政治郎・ツルの2女、房と結婚している。だが、不運なことに、2女は夭折、妻も体が弱く、27歳の若さで亡くなり、同時に3女も夭折した。その後、大正13年に再婚した。亀太郎は家族への愛情が強く、また友人思い、他人への面倒見も大変よかった。日記を読むと家族への愛情がひしひしと伝わってくる。冠婚葬祭には必ず出席しており、他人への面倒見は並ではなかった。交遊関係は広く、日記に次々に著名な人物が登場する。2千~3千人位は居る。主な人物を列挙すると、村松恒一郎、山村豊次郎、堀部彦次郎、堀部俊介、石崎忠八、石崎庄吉、槇本源蔵、長滝嘉三郎、居村繁次郎、神森真市、高畠秋松、欣之助、長山芳介、林巳之松、小笠原長道、黒田孝太郎、佐々木高義、赤松伊平、赤松晴雄、都築修蔵、堀部健雄、河野円太郎、村山半蔵、中平常太郎、久松操、長妻篤日子、井上源一、中川千代治、太宰孫九、岡本景光、清家吉次郎、山下亀三郎、渡辺修、井谷正命、佐々木長治、佐々木饒、久都直太郎、薬師神岩太郎、赤松桂、桂作蔵、中村惣八、純一、山本常一郎、大宮庫吉、田中実馬、研吾、山崎章一、小泉源吉、桐田伊四郎、末光寅市、奥島須賀夫、緒方陸朗、程野宗兵衛、直之助、摂津静雄、河野駒次郎、小西荘三郎、小西万四郎、小西左金吾、枡田與三郎、等。中央政治家では犬養毅、島田三郎、砂田重民、福沢桃助等である。教会関係者も多数出てくる。三戸吉太郎、宇野真一、今田参、W・P・タ-ナ-、東正義、柳原浪夫、河野令吉、橋本久一、元吉潔等々。また、よく会合し、多くの料亭も出てくる。蔦屋、丸水、三間屋、大吉、梅廼家等々。
亀太郎は人格が高潔で、誠実、律儀な人だった。例えば、小学校時代の友人で、且つ親類の山崎章一が市土木事業の収賄で捕まり、検挙されたとき、亀太郎は山崎章一に公職辞任を勧めている(昭和7年2月8日)。潔癖な性格が窺われる。昭和17年の宇和島市長退職の際、亀太郎は退職金4000円に、さらに1000円を加えて、市に寄付している。律儀な人であった。昭和47年9月23日、89歳で没した。
以上のように、亀太郎は実業家として、政治家として、人間として鑑のような人であった。
(参考・「たむたむ」の記事〈元原稿は、川東竫弘氏〉)
竹田 芳松 ・ 郷土の先人 146
竹田 芳松 (たけだ よしまつ)
明治32年~昭和56年(1899~1981) 愛媛県におけるはまち養殖業元祖、城辺地域の水産功労者。
明治32年11月18日、南宇和郡東外海村久良(現愛南町城辺久良)において父竹田角太郎、母ハンの長男として生まれる。父は魚の小売業を経営して御荘村(現御荘町)方面に行商を行っていた。大正2年3月東外海村尋常高等小学校を卒業後、直ちに家事に従事した。その当時15歳であった芳松は、父角太郎とともにイリコ(煮干いわし)の加工業を営み、漸次事業規模を拡大した。大正6年~12年の間、イリコその他の海産物問屋を経営するほか、久良湾内で無動力船による小型のまき網漁業も行っていた。
芳松は資性温厚にして商才に秀いで、創造力、指導力、決断力に富み強固な意志と社会への奉仕精神は、きわめて旺盛であった。昭和7年4月、周囲から推されて久良農業協同組合長に就任し、9年間にわたって地区農業経営の改善と生産技術の向上を図って地域農業の発展に寄与した。昭和10年5月、東外海市場株式会社を創設し、12年4月には、竹芳水産有限会社を設立し社長に就任。沿岸まき網・遠洋底びき網漁業を経営し、漁法の改良に務めた。昭和15年8月には、愛媛県の鮮魚運搬業者の統一を図り、組織の強化と経営の改善、運搬の迅速化の指導に当たった。昭和16年4月、東外海村漁業協同組合の理事に選任され、漁港の整備、市場施設の拡張に努めた。
戦争集結後の昭和26年6月、県は東外海村深浦に初めて漁業用海岸局をつくり、免許人の指導用は知事、漁業用は県漁連会長であった。翌27年1月、愛媛県一円を地区とする愛媛県無線漁業協同組合が東外海村深浦に設立され、同年3月開局のうえ、県漁連の業務を引き継いだ。この初代会長として竹田芳松が36年12月までの10年間就任し、無線による情報の伝達と海難の防止に当った。昭和25年8月~27年8月までの間、愛媛県における第1期海区漁業調整委員として宇和海区の地区代表として選任され、漁業制度の改革と漁業補償、漁業調整等の面で活躍した。
昭和27年12月27日、愛媛県一円を地区とし、かつお、まぐろ漁業及び以西以東底びき網漁業を営み、またはこれに従事するものを組合員として愛媛県海洋漁業協同組合が東外海町に設立せられた。優秀な大型まき網船を建造し、漁場の開発と漁法の研究に努め、今日にみられるような大型まき網漁業への先駆者として寄与した。その後かつお、まぐろ漁業は昭和33年ころから漁獲不振となり、以西、以東底びき網漁業も中国にだ捕されたりして不振が続いた。芳松は、今後漁業の活きる道は「とる漁業」から「つくる漁業」にあると考え、南宇和郡海域の立地条件を活用して、昭和36年より県下で初めてはまち養殖を本格的に開始した。そして、当時は誰もが手かけていないモジャコ(はまちの稚魚)採取も、自分で始めこれを成功させた。同年におけるはまち養殖は城辺町1、宇和島2、津島町1、三瓶町1、明浜町1の計6か所で約7万3千尾が養殖された。芳松は、このうち3万尾を、城辺町久良のシダオで仕切網方法により、約3,000坪の海面を利用して養殖を開始した。しかし、この方法は、昭和42年以降現在のような小割イケスによる養殖方法で行われるようになった。他の地区でも、いずれも小割イケス養殖で引き続き養殖が行われている。愛媛県のはまち養殖の生産額は日本一を誇っているが、この基礎を築いた先覚者としての功績は大きい。芳松は、数々の水産功労のため昭和31年黄綬褒章、54年勲五等瑞宝章を受章した。昭和56年1月26日、81歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
藤原 勘一 ・ 郷土の先人 145
藤原 勘一 (ふじわら かんいち)
大正5年~昭和62年(1916~1987) 水産功労者。
大正5年2月4日、南宇和郡西外海村(現愛南町)に生まれる。漁業協同組合長を33年間、県漁連会長は昭和42年来務めた。その間、宇和海漁業はイワシまき網の大不振、真珠・ハマチの養殖漁業の導入など漁業の転換期を体験してきた。県水産業の歩みは、そのまま藤原の個人史ともいえる。漁業生産額全国5位、ハマチ・真珠母貝では1位を占める漁業県に育てた力は大きい。これからの漁業は、資源管理型漁業でなくてはいけないと展望し、漁村営漁団地を構想する。ソフトな人当たりで多弁ではないが、海、漁業を語るときの口調は次第に熱を帯びた。戦後、西外海村の最初の村長を1期務めた。昭和37年知事表彰、同54年藍綬褒章,同57年科学技術庁長官表彰、同61年勲四等旭日小綬章を受ける。昭和62年5月29日、71歳で死去。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
細川 一 ・ 郷土の先人 144
細川 一 (ほそかわ はじめ)
明治34年~昭和45年(1901~1970) 医師。水俣病を糾明した。
明治34年9月23日、西宇和郡三瓶村津布理(現西予市三瓶町)で生まれ、昭和12年、喜多郡大洲町(現大洲市)細川家の養子になった。宇和島中学校・佐賀高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業した。昭和11年日本窒素肥料会社に入社、同社の阿妻地工場付属病院長を経て熊本水俣工場付属病院長になった。昭和31年水俣病の原因を追及、ネコによる実験の結果、工場排水中のメチール水銀であることを突き止めた。その間、会社側の実験停止命令にも拘らず、人命尊重の立場から研究を続けたが、昭和37年に会社を去り大洲市に帰った。昭和45年、肺ガンで東京の病院に入院中、水俣病裁判の臨床尋問で証言を行い実験結果を克明に記入した「細川ノート」を提出した。昭和45年10月13日,69歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
松本 仙挙 ・ 郷土の先人 143
松本 仙挙 (まつもと せんきょ)
明治13年~昭和7年(1880~1932) 画家。本名は政興。
東宇和郡野村町大字蔵良の、旧庄屋の長男として生まれる。京都市立美術工芸学校絵画科に入学。日本画の教授であった山元春挙に学ぶ。春挙は円山派を学んで風景画を得意とし、当時京都画壇で竹内栖鳳と並び称された画家であった。仙挙は明治35年同校を卒業した後も春挙に師事して、師より画号を与えられている。明治40年、結婚して郷里に帰り教鞭を執るなどしていたが、大正4年、絵に専念するため再び京都に出た。
その後、文展を活動の場として、精力的に制作に打ち込んでいる。大正6年の文展に「静山」を出品して以来、「鬼ヶ城山之図」「静寂」「悟道の跡」と風景画を連続して文展、その後の帝展へと出品する。仙挙が活躍した大正中ごろから昭和初期にかけては、日本美術院の再興、二科の創立、国画創作協会の設立と画壇も多様化、個性主義の成熟期にあった。そうした中で、彼は伝統的技法の上に実感を盛りこんだ、重厚な色調や抽象的構成などの創作を次々と試みている。その画業途中胃癌にかかり、郷里の明浜町で療養するが、そのかいもなく52歳の若さで没す。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
曽根 松太郎 ・ 郷土の先人 142
曽根 松太郎 (そね まつたろう)
明治3年~昭和20年(1870~1945) 教育者。
北宇和郡吉田町(現宇和島市)で、曽根利真の長男として明治3年10月2日に生まれる。15~16歳の頃、吉田仮中学に在学中、「教育の必要を論ず」という作文を書いた。漢文教師を驚かせ、東京の「穎才新誌」に投稿して掲載された。明治20年、尋常小学授業生試験に合格し、宇摩郡城山尋常小学校授業生となる。明治21年、愛媛県尋常師範学校に入学し、明治25年卒業。宇和島高等小学校訓導、師範学校付属訓導を経て、明治29年松山中学校助教諭となり31年伊予郡視学となる。続いて、西宇和郡視学となる。
明治33年に、東京で三土忠造に会い教育記者の志望を告げ、34年上京、教育雑誌社金港堂に勤務し主筆として論陣をはる。その後,帝国教育会の活動不振を訴え,評議員に選挙され教育会革新の先頭に立つ。44年金港堂を退社し、明治教育社を創立し、雑誌「教育界」を出版する。大正に入って、明治教育社や書肆南北社、大日本文華社に勤め、その間、教育雑誌記者と教育擁護同盟を発足させる。その後昭和に入って、小学校、低中高学年向きの「教材王国」を発刊したり,東京における愛媛県出身教員の組織「愛媛同交会」の会長に就任して、県と在京者の連絡に尽力する。
功績としては、沢柳政太郎博士に認められ、その影響と庇護を受けながら、中央の教育界に対して発言力をもった。後に、文部、大蔵大臣となった三上忠造と肝胆相照し、無冠の人間ながら教育界に多大の影響を与えた。昭和5年以降の歩みは定かではないが、本郷に文化書房を経営し,民間教育界の長老として後輩のめんどうをよく見たことは、多くの人の語り伝えるところである。関東愛媛教仕会発行の「愛媛の人脈」の中に、「昭和の中江藤樹」とした一文がみえる。晩年は、疎開先の岐阜県加茂郡東白川村で過ごした。その地で、75歳の生涯を終えた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
向田 助一 ・ 郷土の先人 141
向田 助一 (むこうだ すけいち)
明治33年~昭和41年(1900~1966) 真珠養殖技術を習得し、愛媛県における事業化を進め、特に太平洋戦後の真珠養殖業の復興を図った。
明治33年1月16日南宇和郡内海村大字内海444 (現愛南町御荘平山)において、父善太郎と母ミヤの四男として生まれる。父は、小規模なちりめんいわしのひき網と農業を営み、助一も兄弟たちとともにこれを手伝っていた。大正2年、南宇和郡御荘村長崎で小西左金吾らが設立した予土水産に、小学校を卒業して間もなく就職し、走り使いなどをしていたが、これが助一を真珠に結びつけるもととなった。
入社してから、真珠養殖技術の一番の秘けつは「核入れ」にあると知った。県水産試験場の大月菊男技師の指導を受けながら、この技術習得に懸命な努力を重ね、ついには社内第一の挿核技術者となった。同社は、その後集中豪雨によって大災害をうけて解散したが、この漁場を引き継ぐ形で、平山の実藤道久、大月菊男らを中心に大正9年に設立された伊予真珠株式会社は、本社と事業所を平山において事業を始め年間2万貝を施術した。助一は、ここに技師長として迎えられ努力したが、真珠養殖業は事業としては成り立たず、この会社も数年後には倒産した。挿核してから製品に仕上がるまで4~5年もかかり、真珠の価格の暴落もあり経済効率のうえから企業の採算に合わなかったのである。
昭和3年、長崎県大村湾在住の高島末五郎は、伊予真珠株式会社の施設を買収し、向田助一を工場長として高島真珠株式会社を設立して、年間5万貝を施術した。しかし、ここも再度の価格暴落により事業を閉鎖したので、この後を引き継ぐ形で助一が事業を開始した。当時の会社経営はいばらの道であった。ようやく軌道に乗ったと思うと太平洋戦争が勃発した。頼みの輸出は中止され、国内需要も「ぜいたく追放」で途絶えたので、助一はまた家業の小網操業へと逆戻りしなければならなかった。
昭和20年やがて終戦となり、手持ちの真珠がブームに乗った。当時は、占領軍の許可を要した真珠養殖業であったが、飾り気のない誠実な人柄のため,県下で戦後最初の許可を受けることができた。昭和23年(1948)、向田真珠が南宇和郡平城湾で、竹ザオ20本の規模から真珠養殖を再開した。こうして、戦後の愛媛県における真珠養殖業のリーダー的役割を果した。その誠実さと事業への先見性で、難しい真珠事業の業績を伸ばした。
昭和28年、長男純一郎に養殖場を任せ、助一は神戸で製品の販売に当った。職人肌の人にありがちな偏屈さはなく、研究熱心に加え「蛸子」という俳号をもつ風流人であったほか、宮相撲では大関を張っていたなど多技多才な面も持ち合わせていた。本県真珠養殖業発展の先駆者の一人としての功績は、非常に大きい。
昭和41年9月12日、京都において没、66歳。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
毛利 久 ・ 郷土の先人 140
毛利 久 (もうり ひさし)
大正5年~昭和62年(1916~1987) 仏像彫刻研究家。
大正5年10月4日、宇和島市に生まれる。宇和島中学校(現宇和島東高)から山口高等学校(現山口大学)へ進み、さらに京都大学史学科を卒業し大学院に進む。中学4年で奈良・京都へ修学旅行に行き、有名な仏像を目の前にして感動し、仏像の表情を見て「この世にない美しさ」に心を魅せられた。大学院生時代にはアルバイトで京都府下の仏像総合調査に参加し、美しさを実証的に追求する研究に目覚めた。
「仏師快慶論」で文学博士となり、京都大学、同志社大学、京都女子大学で仏像彫刻の講義を続け、昭和42年神戸大学文学部長となる。鎌倉彫刻研究の第一人者である。年に一度は故郷に帰り、ほほ笑みかける慈愛に満ちた仏の顔に優しい母の眼差しを思い、育ててくれた母に想いを馳せた。仏を通じて、日本人の心を追い求める人でもあった。愛媛県史「芸術・文化財」の執筆協力者でもあった。昭和62年9月10日、70歳で死去。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
薬師寺 長吾 ・ 郷土の先人 139
薬師寺 長吾 (やくしじ ちょうご)
慶応2年~昭和18年(1866~1943) 果樹栽培功労者。ミカン園の簡易索道考案者である。
慶応2年6月17日、北宇和郡立間村(現吉田町)に生まれる。明治25年頃より山林の開墾に着手し,、15年間に2.5haを開園し、ミカンを植栽した。大正7年、急傾斜果樹園の採収運搬に使用する簡易索道を考案した。この簡易索道は、本県はもとより、全国の傾斜地果樹園に普及し、運搬の省力化をもたらした。
昭和18年9月3日、77歳で死去。立間村農協(現宇和島市吉田町農協立間支所)に、顕彰碑が建っている。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
渡辺 修 ・ 郷土の先人 138
渡辺 修 (わたなべ おさむ)
安政6年~昭和7年(1859~1932) 衆議院議員、実業家。宇和水力電気会社を創業した。
安政6年12月、宇和郡泉村岩谷(現広見町)の庄屋の家に生まれたが、明治3年11歳のとき家財を失った。勉学の志消えず、宇和島の南予中学校(現宇和島東高校)まで歩いて通学、毎日米麦を担いで運び、その利ざやを学資にしたという。豊前中津の慶応義塾分校から、慶応義塾に進んだ。
明治15年以来、農商務省・外務省・逓信省の官吏や愛媛県内務部長・佐世保市長を歴任、役人生活を20年経験した。明治35年8月、政友会に所属して衆議院議員選挙に立候補当選したのを最初に、大正13年1月まで連続7期当選して、22年間代議士の地位を維持した。
明治43年宇和水力電気会社を創立して社長になり、南予に電気を灯した。その後、大阪電灯会社社長、大阪三品取引所理事長、日本電気協会会長などを歴任した。昭和7年10月15日、大阪で没した。72歳。
ほとんど東京・大阪で暮らしていたが、郷里のことを忘れず、昭和5年の農村恐慌時には、泉村に5千円を寄付して貧民救済の助けとした。死後の昭和9年2月1日、泉村役場横に胸像が建てられた。太平洋戦争時の金属回収で供出されたが、現在鬼北町就業改善センター前庭に再建されている。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
小波 軍平 ・ 郷土の先人 137
小波 軍平 (こなみ ぐんぺい)
明和7年頃~安政3年(1770頃~1856) 幕末の藩政改革を進言した宇和島藩士。
伊藤大膳の次男として生まれる。幼名良太郎、実名嘉膳のち軍平と改めた。隠居して鶴翁と称した。安永8年(1779)小池司馬の養子となり、家督133石6寸を継いだ。児小姓にはじまり京都詰、長柄頭、近習、元締役、浦奉行、鉄砲頭、勘定本行、弓頭を歴任している。
文化9年(1812)の萩森騒動は、藩内にかなりの影響を与え、これを機会に藩財政の再建案が真剣に考えられるようになった。軍平は再三の改革案を提唱しているが、根本は倹約や借上などの消極策を否定し、積極策に転じようというものであった。第一に農漁業を振興すること、そのためには藩が技術指導をしてやることである。現に日振島では、焚き寄せの漁法が成功しているのに、他の浦では知らないなどの現状があった。第2に副業を奨励すること、特に製紙を勧め、楮元銀の弊害を説いている。第3に検地の必要性を説き、これによって相当量の新田畑ができるとし、さらに正銀の藩外流出問題を説いている。これらのうち検地だけは、実行に移された形跡がある。しかしそれも河原淵組だけで中止されている。そのため軍平の進言は、続いた。
文政11年(1828)勘定奉行・元締兼帯,町奉行加談となる。藩主はすでに宗紀となっていたこの年、銀札発行額を3,000貫以内とすることを提案。生産力に過ぎた銀札発行は、生活の騎奢、貧富の差の拡大、他国よりの移人品を増やし、ひいては藩財政を窮迫させているという論旨である。これらの改革案は宗紀の時代に推進されている。また彼は、按摩の技術にもすぐれ、宗紀の子供達を療治して、裃と感謝の直言を受け、隠居後は弟子を指導した。天保8年(1837)、子息の友弥(のち軍平)に家督を譲り隠居。安政3年死去。墓は泰平寺(現宇和島市)にある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
小池 九蔵 ・ 郷土の先人 136
小池 九蔵 (こいけ きゅうぞう)
寛政11年~没年不詳(1799~) 宇和鳥藩士で農政家。幼名直太郎,文政2年九蔵,嘉永5年市太夫と改名。
文政9年父市太夫が死亡し、家督234石2斗を引き継ぎ、虎の間に出仕。小姓勤に始まり、作事奉行、元締役、番頭助、船奉行その他を歴任する。天保9年藩命により佐藤信淵に師事し、同12年まで経済学を修業した。その間、江戸払となり生計に苦しんでいた信淵に、宗城からの下賜金を与えたり、また彼に著述をうながして宇和島藩に提供させるなど、藩と信淵との連絡役をも勤めている。藩へ提出された信淵の著書には、藩のために書かれた『責難録』のほか、『弊政改革秘話』『培養秘録』『種樹園法』などがある。
信淵のもとを去った後も、しばしば音信はあったようで、師に対する濃やかな心づかいが感じられる。天保14年信淵より指導を受けた農法を試すため、約7反の田を与えられ、その計画書を提出している。その見積もりの結論はやや悲観的ではあるが、厩肥や干鰯を肥料とし、牛耕、籾の薄蒔き、裏作としでの麦の栽培などを計画している。また、同じく信淵門下であった若松総兵衛と協力して、人参栽培の指導奨励にも当たっている。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
毛山 森太郎 ・ 郷土の先人 135
毛山 森太郎 (けやま もりたろう)
明治29年~昭和61年(1896~1986) 立間村長・県会議員・衆議院議員。
明治29年3月23日、北宇和郡立間村柏木(現宇和島市吉田町)で生まれた。宇和島中学校中退後、大正8年早稲田大学文科に在籍して若山牧水に師事、歌集『聖土』を出版した。郷土で柑橘栽培に励むかたわら、昭和3年立憲農村青年党を組織して、政治運動や農村改革を指向した。昭和6年立間村助役になり、7年10月立間村長に就任して11年9月まで在職。国鉄誘致と立間駅設置、喜佐方隠道の開削、匡救農業土木事業としての村道改修・小学校の建設などの事績をあげた。
昭和10年9月県会議員に選ばれ、14年9月にも再選され民政党に所属した。この間、北宇和郡宇和島市連合畜産組合長、南予乾繭倉庫組合長、県農会副会長などに就任した。昭和17年4月、第21回衆議院議員選挙(翼賛選挙)に際し、翼賛政治協議会から推薦されて第3区から立ち当選、北宇和郡翼賛壮年団顧問などになった。戦後は、松山に住んで岡田製作所や四国電気工業の専務取締役、愛媛日産自動車常務取締役などを歴任した。昭和61年6月23日、90歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
久世 竜 ・ 郷土の先人 134
久世 竜 (くぜ りゅう)
明治41年~昭和60年(1908~1985) 殺陣師。本名河野幸政。
東宇和郡野村町高瀬の生まれ。久世竜は、時代劇映画の名優月形竜之介が名付け親である。昭和2年芸名、岬弦太郎で日活に入るが、後に殺陣師になった。マキノ正博や黒沢明監督との出会いで、「弥太郎笠」や「椿三十郎」「用心棒」「隠し砦の三悪人」などの作品の殺陣師として数々の名作を生んだ。
久世流剣法とは、孤刀影裡流を基調にした臨戦即応の剣といわれている。文献資料を読みあさり、武士、やくざ、農民、町民、それぞれの風習生活様式の中で、異なったアクションを創り出す殺陣で、久世の研究熱心は有名であった。日本映画だけでなく、日米合作映画にまでその技が買われ、アクションディレクターとしても活躍した。「平和主義者でなければ殺陣は構成できない」が信条。ホワイトブロンズ賞受賞。昭和60年1月5日、77歳で死去。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
菊池 竹風 ・ 郷土の先人 133
菊池 竹風 (きくち ちくふう)
明治14年~昭和27年(1881~1952) 号は竹風。本名は武虎。県会議員,三瓶町長,三島村長,三瓶町会議員等の公職を歴任。
明治14年5月7日、宇和郡安土浦(現西予市三瓶町)で旧庄屋菊池京三郎の長男に生まれた。明治39年~41年三瓶村助役、大正3年~7年村会議員を務め、大正4年9月~5年4月県会議員に列した。大正12年1月~15年8月三瓶町長、昭和2年9月~6年9月三島村長として地方行政を担当した。第二山下高等女学校の設立に当たっては、山下亀三郎との姻戚関係により設立準備委員となり、開校後は副理事長として運営に参画した。
幼時より書を好み、古法帖の臨書に励んだ。特定の師にはつかなかったが、あえて師系をあげると、辻本史邑、近藤雪竹、川谷尚亭等で、若いころには、辻本史邑の「書鑑」誌によって学んだ一時期もあった。とりわけ川谷尚亭に私淑した。円熟した晩年には、竹風流の独自な書風を確立、数多くの作品を残している。昭和27年10月17日死去、71歳。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
清水 長十郎 ・ 郷土の先人 132
清水 長十郎 (しみず ちょうじゅうろう)
文政8年~明治20年(1825~1887) 蚕糸業功労者。
文政8年4月18日、東宇和郡卯之町の商家池田屋の次男として生まれた。製茶・蚕糸の業を振興した功労者である。蘭学医の二宮敬作の教えを受けた。文久年間、長崎において日本の製茶が盛んに輸出されているのを見聞し、宇和地方の製茶を改良することを考えた。先進地の山城・伊勢・駿河等を視察、私財を出し製茶の技術者を招き、郡内各地に伝習所を設け良質の茶生産に努めた。また、蚕糸業の振興にも活躍した。
明治4年、桑園を設け養蚕を奨め、明治7年以降桑苗を育成配布した。明治14年、卯之町に「養蚕伝習所」を設け、小川信賢を迎え飼育法を伝授し、翌年信賢の女を雇い製糸法を伝習した。宇和地方における座繰製糸の初めである。また、福島県から蚕卵紙を購入し郡内に配布し普及を図ると共に、蚕種の改善に努力をした。
清水長十郎旧宅には、現在も当時の蚕種貯蔵庫が残存している。明治20年12月15日、62歳で死去し、卯之町光教禅寺に葬られる。なお、大正4年養蚕功労者として愛媛県知事から追賞された。また、大正2年6月、東宇和郡農会・蚕種同業組合・茶業組合・その他郡内有志相謀り、卯之町王子神社の境内に「清水長十郎翁碑」を建て、その功績を後世に伝えている。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
大野 昌三郎 ・ 郷土の先人 131
大野 昌三郎 (おおの まささぶろう)
生年不詳~明治13年(~1880) 幕末の宇和島藩士で蘭学者。
斎藤家の三男に生まれ、徒の大野家を継いだ。長兄は、斎藤丈蔵である。若いころは柔術にすぐれ、弘化2年には藩の武術大会に出場している。嘉永元年、伊東瑞渓(高野長英)の来藩に伴い、蘭学修業の藩命をうける。長英が宇和島を去った後も交信は続いている。
嘉永2年、蘭学修業を願い出、長英のいない宇和島を出て長崎に向かう。修業扶持2人分と1か年につき金10両を支給されている。嘉永6年、村田蔵六(大村益次郎)を藩に推薦、彼の在藩中の世話をしている。翌年,英吉利学の修業を命ぜられ、江戸に赴く。安政3年蘭学修業上達につき、褒美として徒小頭格となり1人分の加増を受ける。この頃には、彼の学識は高く評価されるようになった。
安政5年には、二人の藩士に教授することを命じられた。彼は二人の者が未熟だし、自分の修業の邪魔になるとして一度は教授を断っている。狷介と言われた性格の一端が示されている。土佐の宿毛からも、小野義真(日本鉄道会社社長)が入門している。文久3年、上京していた前藩主伊達宗城の宿所に、宗城を名指しにした尊攘派からの誅戮文が貼られ、藩は護衛の者を増派した。この時、大野は同志二人と共に脱藩して京都に駆け付けており、一蘭学者でなかった一面をのぞかせている。
文久3年隠居、しかし修業扶持はそのまま受けている。明治6年、内務省土木頭となっていた小野義真に招かれ、「準奏任御用掛、土木寮勤務、月俸百円」の辞令のもとに、蘭書翻訳に従事する厚遇を受けた。しかし、役人暮らしが性に合わないと言う理由で、わずか2か月で職を辞し宇和島に帰った。明治13年5月14日没、泰平寺(現宇和島市)に葬られる。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
大家 百次郎 ・ 郷土の先人 130
大家 百治郎 (おおいえ ひゃくじろう)
嘉永5年~大正4年(1852~1915) 果樹栽培先覚者。西宇和郡の銘柄産地「日の丸」のミカン導入育成を図るとともに,農業青年教育に尽くした。
嘉永5年3月5日、西宇和郡向灘浦(現八幡浜市向灘)勘定に生まれる。明治27年頃柑橘苗3,000本(温州ミカン・夏ミカン・ネーブルオレンジ)を導入し、上田吉蔵・浜田梅太郎・木下作松・大家利平・大宗経太郎・中西伊勢太郎らとともに,それぞれ数十本乃至数百本の栽植を行った。その後夏ミカン・ネーブルオレンジは、温州ミカンに接替えられた。これが今日の「日の丸」ミカンの基礎となった。また私塾をつくり、農業経営の改善、農村青年の教育にも尽くした。八幡浜市向灘に頌徳碑が建っている。大正4年10月27日、63歳で死去。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
尾崎 足 ・ 郷土の先人 129
尾崎 足 (おざき たんぬ)
明治28年~昭和56年(1895~1981) 俳人。
明治28年3月18日、南宇和郡御荘村(現御荘町)に生まれる。大商家に育ったが、大正11年に俳句を志して上京、高浜虚子の門下に入る。
昭和2年7月句誌「さへづり」発刊、凡九郎の号で選者となる。同8年より本名を号とし、同年11月『新選豆句集』、同11年4月『新選第二豆句集』を編集発行。昭和18年「さへづり」を廃刊、戦禍を避けて帰郷。同24年再び上京。同27年「さち」と改題して、主宰誌を復刊。昭和46年、通巻317号にて廃刊し、その後、死の前月まで「さち」の号外を刊行した。
昭和56年12月17日死去、86歳。墓地は、御荘町節崎にある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
井谷 正命 ・ 郷土の先人 128
井谷 正命 (いたに まさみち)
慶応4年~昭和9年(1868~1934) 初代日吉村長・県会議員。交通路の開発に尽力した。
慶応4年6月15日、旧吉田藩領宇和郡日向谷村で、戦国時代から「日吉の宗家」といわれた武門の出である庄屋の家に生まれた。幼名辰三郎。明治法律学校(現明治大学)に学び、明治23年23歳で初代日吉村長になり、27年4月まで在職した。北宇和郡会議長の39年2月に、赤松甲一郎の補欠選挙で県会議員になったが、40年9月満期退任した。
村長時代から生涯をかけて南予の交通路開発に献身的に尽力し、宇和島一日吉一須崎線・長浜一日吉線など、山岳地帯の日吉を交通の要所にするために奔走した。また私財を投じて、日吉実業学校を設立して自ら教鞭をとった。「吾こそは貧しくなるも吾が郷の栄えゆくこそ楽しかりける」の生涯を送った。漢学に秀で、白水と号し和歌を詠んだ。昭和9年10月25日、66歳で没した。村民はその遺業を偲んで、「井谷正命先生頌徳碑」を建てた。農民運動の指導者で、社会党元代議士井谷正吉は長男である。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
飯淵 貞幹 ・ 郷土の先人 127
飯淵 貞幹 (いいぶち さだもと)
天保5年~明治35年(1834~1902)吉田藩家老・大参事。明治10年国事犯事件の首謀者として投獄された。
天保5年10月1日、吉田藩家老の家に生まれた。通称縫殿。藩校時観堂教授・森秋水や僧晦厳らに学んだ。元治2年、32歳で家老職を継いだ。江戸・京都にあって藩務に従事,戊辰戦争の際、藩主宗孝を諌めて勤王に変えさせた。維新後、権大参事、次いで大参事職になり、このごろ真澄と称した。
明治2年10月、四国金陵会議で会の進行に寄与して,「小藩に過ぎたる老臣」と称せられた。明治4年廃藩と同時に職を辞し、立間村の別荘に隠遁。時世を憂えて講究所護鷄草舎を開き、ここに集まる門弟だちと「正義党」を結んだ。このごろ八幡浜に退居していた宇和島藩儒・上甲振洋の謹教堂に往訪し、振洋を師と仰ぐに至った。
明治6年、長州諸隊脱隊騒動の首謀者で宇和郡奥野川村に潜伏中の富永有隣に勧誘されて不平士族の結盟を約し、土佐の大石圓らと盟約。上甲振洋と京都に上って春田潜庵を訪ね、鹿児島の西郷党との気脈を求めた。7年東京に赴き、大石らと左大臣島津久光に謁見して、兵制改革などの意見書を提出した。
明治8年、大洲の武田豊城・永田元一郎らと連絡して広く同志を募り、武器弾薬を収集密造し始めた。9年熊本神風連の乱など各地で不平士族の乱が起こると、時節到来を悟り、10年西南の役が勃発して西郷軍を応援すべく大洲の武田や宇和島の鈴村譲らと謀議中に事が露見、同志と共に逮捕拘引され、懲役5年の刑に処せられた。
これが「明治10年国事犯事件」または「西南騒擾」と称せられる本県不平士族の反抗未遂事件であった。明治14年出獄後、鈴村の海南書院を手伝い立間村に閑居したが、25年宇和島に私立中学校が設立されると請われて教鞭をとった。明治35年7月4日、67歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
二荒 芳徳 ・ 郷土の先人 126
二荒 芳徳 (ふたら よしのり)
明治19年~昭和42年(1886~1967) 伯爵・貴族院議員、少年団日本連盟理事長、ボーイスカウト育成のパイオニア。
明治19年10月26日、宇和島で伊達宗徳の九男に生まれた。幼名伊達九郎。北白川宮能久親王の四女拡子と結婚、明治42年能久親王の興した伯爵二荒家を継いだ。大正2年、東京帝国大学法科大学政治科を卒業して、文官高等試験に合格。愛知県属に任じ、次いで静岡県理事官になり、後に欧米各国に出張した。
大正9年、宮内省書記官兼参事官に任ぜられ、10年皇太子の海外巡幸に随行。大正14年、貴族院議員になり、昭和22年まで在職した。イギリスで見た青少年運動に共鳴して、帰国後少年団日本連盟(のちボーイスカウと)の創立に奔走、初代理事長に就任した。また日本体操専門学校長(現日本体育大学)、体育協会会長などを歴任した。郷土発展のためにも南予文化協会長を務め、ボーイスカウトの育成に当たった。昭和42年4月21日、80歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)