郷土の先人 ➂
緒方 陸朗 ・ 郷土の先人 125
緒方 陸朗 (おがた りくろう)
万延元年~昭和10年(1860~1935) 野村町長・県会議員・実業家。
万延元年5月16日、宇和郡野村(現東宇和郡野村町)で、庄屋緒方惟貞の次男に生まれた。幼名陸之助、諱は惟忠。文久3年、脱藩して藩の譴責を受けた父の後を継いで、4歳で里正になり、後に戸長を務めた。
明治22年1月県会議員に選ばれ、25年3月まで在職。大同派に所属して、政治運動に従事した。明治32年東宇和郡会議員・議長になり、郡制廃止までその任にあった。大正11年、野村町制施行に伴い初代町長に就任、昭和2年まで在任して、道路改修、学校林の植林などに尽力した。
実業面では、東宇和蚕業共同組合を創立し、組合長となって養蚕を地場産業として振興した。大正7年には、伊予野村銀行を創立、同年宇和自動車会社を設立して、野村一卯之町間の旅客自動車定期便を走らせた。また、宇和水電取締役、愛媛県農工銀行監査役などを歴任した。
大正元年10月~4年4月と大正12年9月~昭和2年9月、県会議員になり、政友会に所属して国有鉄道誘致に奔走したが、実現しなかった。昭和10年2月9日、74歳で没した。昭和26年4月、頌徳碑が建てられた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
緒方 惟貞 ・ 郷土の先人 124
緒方 惟貞 (おがた これさだ)
文政5年~明治16年(1822~1883) 宇和島藩野村の庄屋。通称与次兵衛、諱は惟貞、字は成卿。静山、静隠と号す。
文政5年5月8日、野村の庄屋惟真の次男として生まれる。嘉永4年(1851)野村の庄屋職を継ぎ、宇和島藩より5人扶持を与えられる。緒方氏はもと大神氏の一族で、豊後国の国人であった。戦国時代、大友氏との反目もあって宇和郡野村に居住するようになった。惟照の時、宇都宮氏にかわり白木城主(現野村町)となる。秀吉の四国平定で下城し、江戸時代には代々野村庄屋職を継承してきた。惟貞の祖父惟吉(源治)は、野村・山奥組代官ともなった人物である。
文化14年(1817)、被差別民が、その頭に対して待遇改善を要求した時、庄屋であったその予惟真(惟貞の父)と共に、被差別民の要求を支持して藩庁と交渉する気風をもっていた。惟貞は、頼山陽の長子聿庵に師事し、藩内では勤皇僧晦巌や上甲振洋とも交流があった。文武を学び,特に弓術にすぐれていたという。
文久年間(1861~1864)、騒然とした世情に呼応して脱藩、上坂している。このため藩の処罰を受け、さらに文久3年隠居、子の惟忠(陸朗)に庄屋職を譲った。しかし、惟忠が幼少のため、その後も実質的には彼が実権をもっていた。後に、大津事件で著名となる児島惟謙は一族で、嘉永5年(1852)より3年間、酒造業を手伝いながら同家に寄宿した経歴をもつ。同家の家風の与えた影響も、少なくなかったと思われる。
嘉永5年、野村で大火があり、100戸が罹災した。このため、惟貞は愛宕神社(現野村町)に無火災を祈願し、100年間の願相撲を奉納することとした。これが現在も伝わる乙亥相撲のはじまりである。明治3年(1870)、野村騒動がおこった。前年の凶作で大豆銀納の資金に窮した農民達が、櫨の実の買い上げ価格引き上げを要求して蜂起し、後には村役人層に対する不正糾弾の要求を掲げるようになった騒動である。領内各地から野村に屯集した農民は、1万数千名とも言われる。彼等は名門で声望のあった緒方庄屋に押しかけ、藩民政局もその調停を望んだ。惟貞は、彼等に食糧や筵さらに提灯まで提供する一方で、農民代表を呼び出し祖父惟吉勤役中の掟書を読み聞かせ、要望書を提出するよう説諭している。こうして両者の調停に成功し、野村騒動を解決に導いた。
明治16年3月20日没。行年60歳。神葬によって安楽寺(現野村町)に葬られる。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
尾崎 重厚 ・ 郷土の先人 123
尾崎 重厚 (おざき しげあつ)
慶応4年~昭和30年(1868~1955)
慶応4年2月6日宇和郡緑村(現愛南町城辺緑)に生まれ、長じて名字帯刀を許された緑村庄屋、旧里正の尾崎家の人となった。性温厚篤実にして弱者を助け、後輩を育てる稀にみる人徳の人であった。御荘学校卒業後、緑簡易小学校に奉職し、子女の教育に当たった。
明治24年、同村助役となり、同32年32歳の若さで、衆望を背負って村長となった。以来、学校教育の充実整備、里道の改修、産業組合の設立、造林緑化の奨励など地域開発に努め、緑僧都村をして県下の模範村たらしめた功績は多大であった。そればかりでなく、南宇和郡農会長、同郡会議員並びに議長、同教育部会長、町村長会長・愛媛県会議員など多くの要職を歴任し、45年の長きにわたり公共のために務めた。その努力と人徳は賞賛の的となった。
特に、本県和牛の源流となった御荘牛の改良発展には心血を傾け、昭和37年12月、県下第1号の南宇和郡畜牛組合の設立には、支柱的役割を果たした。大正4年、畜産組合となるに至り、組合長として牛馬に加え羊、豚鶏の奨励のための規程の制定、優良種雄畜の導入、品評会の開催、家畜市場の開設、繁殖・育成・肥育組合の設立など、郡内畜産の振興に大きな足跡を残した。
多くの受賞の栄に浴して、緑公民館には翁の頌徳碑が建立されている。昭和30年10月23日、87歳で逝去した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
小川 信賢 ・ 郷土の先人 122
小川 信賢 (おがわ しんけん)
文政8年~明治29年(1825~1896) 明治初年の南予における蚕糸業の功労者。
文政8年8月、宇和島藩士として現宇和島市に生まれた。家は藩祖秀宗以来伊達家に仕えていた。明治3年、宇和島藩が産業奨励のため、養蚕・製糸・機織の教師を滋賀県から5名招き、八幡村生産場で養蚕を始めた。桑は日振島から取り寄せ小川信賢らは養蚕を習い、次女の小川安子らに製糸を習わせた。
信賢は修業後、各地に養蚕の勧誘に努め、技術を熱心に伝えた。養蚕の業が広がると共に農家の収益も増加した。信賢はさらに養蚕の発展を図るためには、機械製糸を盛んにする必要を認め、明治7年、長男信理(28歳)や水原益雄(20歳)内田顕敏(15歳)らと共に、群馬県相生町の沢吉右衛門について捻糸・染色・機織の技を習った。帰郷後,蚕糸業の発展に尽くした。斯業の先覚者のひとりである。明治29年6月5日、70歳で没した。宇和島市等覚院に葬られる。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
小笠原 長道 ・ 郷土の先人 121
小笠原 長道 (おがさわら ながみち)
嘉永4年~昭和6年(1851~1931)、明治前期、養蚕製糸業の発展に尽力した指導者。
嘉永4年4月11日、宇和郡丸穂村(現宇和島市)に生まれた。明治12年東京麻生の津田農社在学中、内務省勧業寮所管の新宿試験場が廃止に当たり、魯桑苗50本を払い下げしてもらい、帰郷し植栽した。愛媛で魯桑が栽培された最初である。明治13年宇和島の郡長・都築温の勧誘によって、小川信賢ら有志で養蚕伝習所を丸穂村禅宗光国寺内に設け、養蚕・製種・製糸の技術を伝習した。岡山県笠岡から製糸機械と工匠重見杢四郎を招き、宇和島町一宮下に8人繰製糸機械を設置した。そして松山で修業した工女を雇い、宇和島製糸会社を創業した。
明治16年、第3農区養蚕製糸改良会会長となり、賚善社社長となって旧宇和島士族の授産織物・桑の栽培を行い、本県勧業諮問会員及び丸穂村勧業委員を務めた。明治20年9月、県の養蚕農事巡回教師となり精力的に活動、県内各地で講演を行い養蚕推進に努める。同22年県会議員に当選し、本県農談会の副会長となる。同年5月宇和島製糸会社を解散し蒸気機関製糸の最初である南予製糸会社を設立、その社長となる。
明治24年、宇和島桑苗会社社長となる。25年大日本農会特別通信委員, 29年南・北宇和郡蚕業組合長・農会長となる。また、大正4年には、宇和繭売買株式会社社長となるなど、大いに活躍をした。明治27年と32年の2回、県知事から「蚕業功労賞」を受賞。昭和6年4月8日、79歳で死去。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
上田 宗一 ・ 郷土の先人 120
上田 宗一 (うえだ そういち)
明治23年~昭和57年(1890~1982) 医師・実業家・宇和島市長。
明治23年12月22日、西宇和郡伊方村(現西予市伊方町)で生まれた。大正4年肩山医学専門学校(現岡山大学医学部)を卒業して東京順天堂大学に勤め、大正7年宇和島広小路に医院を開業した。
昭和14年6月、医業を休業して宇和島澱粉会社社長に就任した。昭和17年8月、宇和島市長に就任、戦時中の困難のなか宇和島港湾修築工事を完成した。また、陸海軍用機「宇和島市民号」を献納するなど、大政翼賛運動の実をあげた。昭和20年、空襲により焼土と化した市街の復旧と罹災者救護に奔走して、21年3月退任した。
その後、宇和島信用金庫理事長を17年、伊達倉庫社長を28年間務めた。昭和57年8月8日、91歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
岡本 景光 ・ 郷土の先人 119
岡本 景光 (おかもと かげみつ)
明治3年~昭和36年(1870~1961) 養蚕の父と仰がれ、明治・大正期南予における養蚕(特に蚕種の製造を盛んに行う)の推進に努めた。
明治3年10月19日出生。明治25年東京蚕業試験場(現在東京農工大学)を卒業し、北宇和郡三間村迫目の旧里正岡本家を継いだ。蚕業試験場での学習をもとに、桑園の肥育を図るため天地返しをやって、良質の桑を多く収穫するなど他の模範となる。養蚕室も幅10m長さ30m総2階を建て、近隣の婦女子150名余を雇用した。蚕種製造を整然とした作業によって行い、明治23年以降、専ら蚕種製造に従事し、その事業を拡張した。その蚕種「岡本種」は良質で、好評を得て県内は勿論県外からも注文を多く受けた。宇和島製氷会社と特約して蚕種の貯蔵庫を設置し、日支交雑種の作出しに成功した。さらにフランス・イタリアからも蚕種を取り寄せたり、自らヨーロッパに出かけて蚕種改良の研究をした。
昭和2年、8か月にわたり清家吉次郎と欧米視察の旅行をし、フランス・イタリアで蚕種を求めたりもした。明治36年9月県会議員となり、同38年三間村長となる。大正12年9月再び県会議員となった。昭和36年5月12日、90歳で死去した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
大野 三次 ・ 郷土の先人 118
大野 三次 (おおの さんじ)
安政5年~昭和20年(1858~1945) 植林事業の功労者。
安政5年11月7日宇和郡予子林村(現西予市野村町)大野三郎左衛門正盛の三男。分家の兄初次郎の家を継ぎ酒造を業としていたが、明治23年1月町村制が実施された時、横林村村長に選ばれた。教育熱心で、簡野道明など篤学者を横林小学校に招いて大いに人材の養成に意を用いた。また、教育費の財源を豊かにするため、学校林の育成にも努めた。予子林村長として初代・3代・5代目の3期8年在職し、明治38年辞任。その年の11月、同郡俵津村から懇請され村長となり、それまで隣村との間で紛争のあった入会権問題を円満に解決した。50haに及ぶ植林事業を推進し、俵津発展の財源となった。
明治43年1月、野村村長に迎えられ、よく先見の明をもって村民の心を結集し善政を行った。特に造林事業をもって村おこしを企図し、大正4年(1915)、天皇即位の記念事業として、村有林野条例、営林規程、施業案等を制定した。大字野村区有草生地・横岳双津野約800haを造林し、自治財政の基盤を確立せんと企画、自ら「愛山」と号し率先本格的な造林に努めた。
大正15年6月、高川村村長に選任され、小学校の統合新築、高知県梼原村に至る道路の改修を行い、また村有地の植林事業を積極的に行い、昭和6年3月辞任した。各村の村政において「山村長」の名に背かず、終始一貫営林に努め、地方自治の財政基盤百年の大計を企画遂行した。
昭和22年1月、野村町役場前に頌功碑を建て、その業績を後世に伝えている。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
菊池 武範 ・ 郷土の先人 117
菊池 武範 (きくち たけのり)
明治28年~昭和50年(1895~1975) 実業家・タイガー魔法瓶創立者。
明治28年11月5日、西宇和郡三島村皆江(現西予市三瓶町)で旧庄屋菊池里美の次男に生まれた。家が没落したので、明治43年小学校卒業後、志を立てて大阪に行き、メリヤス製造業者の徒弟になった。大正3年5月19歳のとき、魔法瓶の将来性に着目してその製造工場に勤め、以来9年間、その研究と市場調査に努めた。
大正12年、菊池製作所を設立して魔法瓶の製造販売を始め、業績は年を経るごとに上昇した。昭和16年、政府命令による統制で、日本魔法瓶会社の取締役になった。戦後、再び菊池製作所を再開、昭和28年タイガー魔法瓶工業株式会社と改称。自ら社長として経営に当たり、技術的に優れた品質は利用者の信用を博した。昭和38年、紺綬褒章を授与された。郷里三瓶町の小・中学校の建築設備に多額の寄付を惜まず、昭和42年2月名誉町民に推挙された。昭和50年5月14日、79歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
水谷 正太郎 ・ 郷土の先人 116
水谷 正太郎 (みずたに しょうたろう)
明治24年~昭和44年(1891~1969)医師、立問村長・県議会議員、県医師会副会長。
明治24年3月12日、北宇和郡成妙村戸雁(現三間町)で生まれた。宇和島中学校を卒業して、大正5年医術開業試験に合格した。その後、東京帝国大学医科大学で研修、愛媛赤十字病院勤務を経て、立間村医王寺下に医院を開業した。村内唯一の医師として、村民の医療に尽瘁。校医としても、児童の衛生管理を怠らなかった。
昭和22年4月立間村長に公選、県議会議員にも選ばれて両者を兼務して26年まで在職した。その後、北宇和郡医師会長に推され、昭和33年~37年には県医師会副会長を務めた。また北宇和郡PTA連合会長・県PTA連合会長などを歴任した。昭和42年、勲五等双光旭日章を受けた。昭和44年12月31日、78歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 宗敬 郷土の先人 115
伊達 宗敬 (だて むねよし)
嘉永4年~明治9年(1851~1876) 伊予吉田藩第九代藩主。
嘉永4年2月23日、幕臣山口丹波守直信の次男として出生。明治元年(1868)、第八代藩主宗孝の養嗣子となる。養父宗孝は実父直信の弟であり、宗敬にとっては叔父にあたる。同年7月23日、襲封。同2年、従五位下若狭守に任ぜられ、同年華族に列せられる。同年6月20日、版籍奉還により吉田藩知事となる。明治3年(1870)宗孝の長女信と結婚。
明治2年藩学時観堂を文武館と改め、従来別施設であった武術場を合併。さらに、士分の入学のみ認めていたものを士庶共学とした。明治3年、三間騒動が起きた。藩税制の改変要求に始まり、庄屋層の非法糾弾に発展したこの農民一揆に対し、藩は軍隊を出動して鎮圧している。
明治4年7月15日、廃藩置県により知藩事の任を解かれ、東京に移住する。明治9年宮内省勤番を命じられたが、同年8月29日、死去。亨年25歳。明治17年、嗣子宗定が子爵に列せられた。法名は、天性院殿順宗敬大居士。墓は高輪東禅寺(現東京都)にある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 宗孝 ・ 郷土の先人 114
伊達 宗孝 (だて むねみち)
文政4年~明治32年(1821~1899)伊予吉田藩第八代藩主。幼名は、鎬之輔、伊織。楽堂と号す。
文政4年3月17日、幕臣山口直勝の三男として生まれる。天保10年(1839)、七代藩主宗翰の養子となる。山口家は3千石の旗本で、宗孝の祖父直清は、宇和島五代藩主村侯の次男であり、山口家に養子に行った関係があった。実兄(一説に実弟)の宗城は、この時、宇和島藩第七代藩主宗紀の養子となっていた。天保14年6月24日、襲封。同年12月、従五位下和泉守に叙任される。弘化2年(1845)、若狭守となる。同年、日向国佐土原藩主島津忠寛の娘と結婚している。
『落葉のはきよせ』に「好東厭西の性僻」と評されたのは、その経歴が旗本出身であったということに由来していると思われる。市井で評判の板前を御料理方に登用し、小唄や端唄を好むなど、江戸風に浸り藩政を等閑にした。「いずくにか10万石に足らずの城を持たざる大名あらん」の言葉(同上書)は、10万石を継いだ兄宗城への蟠りがあったのかも知れない。
宗城が尊王派として活動している時、佐幕派の立場をとり、鳥羽伏見の戦でも動かず朝廷の疑惑を招いた。慶応4年(1868)6月上京、宗城のとりなしで朝廷に陳謝。同年7月23日、致仕、養嗣子宗敬に封を譲った。その後,吉田陣屋に居住したが、廃藩置県で東京に移住。後に、天皇の侍従などを務めている。明治32年5月20日死去、享年78歳。同日付けをもって従三位を贈られた。法名は、總宜院殿楽堂達孝大居士。高輪東禅寺(現東京都)に葬られた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 宗翰 ・ 郷土の先人 114
伊達 宗翰 (だて むねもと)
寛政8年~弘化2年(1796~1845) 伊予吉田藩第七代藩主。幼名は、駒次郎、右京、伊織。諱は壽保、後に宗翰。
寛政8年(1796)6月19日、宇和島藩第六代藩主伊達村壽の四男として、宇和島で誕生。宇和島藩第七代藩主宗紀の実弟である。文化13年(1816)、伊予古田藩第六代藩主村芳の長女於敬と結婚。婿養子となり、同年11月6日に襲封。同年12月、従五位下、紀伊守に叙任される。
前代以来の財政難に対し、文政5年(1822)倹約令と農政事務の簡素化を布達し、同6年富裕者よりの借上金を行っている。また家臣に対しては、内職を奨励し、下士には研師・鞘師・屋根葺等職人の技術見習いを勧めている。また、農漁業の生産拡大にも意を用いた。両度の江戸屋敷類焼などもあったが、藩財政は一応の立ち直りを示した。村芳夫人満喜子の勧めもあって、儒学者井上四明に師事した経歴を持ち、教育に熱心で儒教的色彩を持つ政策も見られる。藩学時観堂に、四明門下で当藩出身の村井則民を登用して教授とし、伊尾喜鶴山を儒員とするなど、その興隆に努めている。
また、天保3年(1832)の大旱魃による貧窮者を救うため、翌年希望者に御在館交わりの川浚を行わせて、米を支給している。天保6年、大飢饉の影響で米価が高騰したため津留を行い、領内で余った米に対しては藩が買い上げる一方、貧窮者に対しては天保3年、同様の救済策をとっている。
天保10年、旗本山口相模守直勝の三男伊織を養子とする。天保14年6月24日、致仕。弘化2年7月8日、死去。享年49歳。法名は、犬大法院殿前紀州大守演巌宗義大居士。墓は大乗寺(現宇和島市古田町)にある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 村芳 ・ 郷土の先人 112
伊達 村芳 (だて むらよし)
安永7年~文政3年(1778~1820) 伊予吉田藩第六代藩主。幼名は、賢佐、直松、分三郎、伊織。
安永7年3月3日、五代村賢の次男として誕生。寛政元年(1789)、兄が病弱のため世子となり、同2年4月2日襲封する。寛政7年下総国関宿藩主久世大和守広明の娘満喜子と結婚。同年従五位下、若狭守に叙任された。天明以来数度にわたる大水害、あるいは火災にも見舞われ、藩財政および領民も極度に窮乏していた。襲封まもない寛政5年、古田騒動(武左衛門一揆)が全藩を包んだ。一揆勢は、宗藩の宇和島藩領に結集、これを説得するために赴いた吉田藩家老の安藤継明は切腹し、さらに宗藩の政治的介入もあって藩は大幅に譲歩、改革を余儀なくされている。しかし、その後も抜本的な財政改革は行われた様子がない。
文化10年(1813)、関東諸川の普請を命ぜられ、3千8百余両の支出があった。寛政7年、軍制改革が行われ三隊編成を完備した。文教政策では見るべき治績がある。寛政6年、藩学時観堂を創設し、折衷学派井上四明門下の森嵩(退堂)を教授としている。また、当藩出身の国学者本間游清を招いて、江戸藩邸の教授としている。村芳自身も学問を好み、書画をよくした。夫人満喜子も和歌に優れ、歌集『袖の香』を遺している。
文化13年(1816)11月6日、致仕。文政3年8月13日死去。享年42歳。法名は、積善院殿南岳徳翁大居士。高輪東禅寺(現東京都)に葬られ,遺髪を大乗寺(現吉田町)に納めた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
大野 作太郎 ・ 郷土の先人 72
大野 作太郎 (おおの さくたろう)
明治19年~昭和43年(1886~1968) 教育者・地質学者。
北宇和郡日吉村で、明治19年9月7日に生まれる。明治41年(1908)愛媛師範卒業。北宇和郡の小学校教員、岩松、三間、日吉等の各小学校長を歴任。その円満な人格と卓越した識見により、新しい校風を築く。
教職退任後は、日吉村議会議長(昭22~32年)として郷土の発展に尽した。青年時代から地質学に興味をもち、県内各地(特に南予地方)の地質調査や化石採集に尽力し、愛媛県の地質研究のさきがけとして活躍した。中でも、大正12年(1923)、東宇和郡城川町魚成田穂の石灰岩の中から発見したアンモナイトは、当時第三高等学校教授で地質学の権威であった江原真伍博士より「地質学上世界的に貴重なもの」として、ミーコセラス・オオノイ・エハラと名付けられた。
以来、一躍南予の地質が中央に知られるようになった。愛媛県教育文化賞を受賞し、日吉村名誉村民となる。昭和43年11月29日死去。82歳。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 村賢 ・ 郷土の先人 111
伊達 村賢 (だて むらやす)
延享2年~寛政2年(1745~1790) 伊予吉田藩第五代藩主。
延享2年1月12日、四代藩主村信の次男として江戸藩邸で誕生。幼名武一郎、後に左京。宝暦13年家督を相続、五代藩主となる。同年、従五位下和泉守に叙せられ、寛政元年、能登守となる。宝暦7年、越後国長岡藩主である牧野駿河守忠利の娘於弘と縁組みしたが、同13年死去のため、明和4年讃岐国多度津藩主京極内膳高文の姉と結婚する。
数次にわたる公家衆接待役に加え、天明6年には武蔵国玉川、相模国相模川の修造を命じられた。この御手伝普請には、4千4百両余を要した。さらに在任中たび重なる天災に見舞われる。旱魃・風水害による被害の主なものだけでも、天明2年、同6年、同7年と、1万石以上の被害が出るありさまであった。火災にも見舞われ、安永6年には、陣屋町の六か丁を焼失し、天明年間には家中町も羅災している。
安永の頃、藩が櫨の栽培を奨励した。このような藩財政の窮迫は、結局のところ農民に転嫁されることが多かったと思われる。天明7年、土居式部騒動が起こる。この強訴計画は、事前に発覚し首謀者の獄死で終ったが、やがて起こる吉田領一揆の予兆であった。
寛政2年2月16日、江戸において死去。法号は、大雲院殿一蔭宗樹大居士。東禅寺(現東京都)に葬られた。享年45歳。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 村信 ・ 郷土の先人 110
伊達 村信 (だて むらのぶ)
享保5年~明和2年(1720~1765) 伊予吉田藩第四代藩主。諱は成冬、村冬、後に村信と改める。
享保5年3月5日、第三代藩主村豊の五男として江戸で生まれる。元文2年家督を相続して、第四代藩主となる。同年従五位下、紀伊守に叙せられた。同年、松平中務大輔信友の妹於園と結婚、元文4年、於園死去のため、諏訪因幡守忠秋の妹於栄と結婚する。たび重なる公役(公家衆の接待役4度、朝鮮使節来聘のための人馬負担2度、その他)、加えて寛延3年の虫害による損害高4千余石、宝暦5年の風水害による損害高9千余石などで藩財政は一段と窮迫した。
宝暦13年致仕。明和2年、吉田において死去した。法号は、環中院殿本融道元大居士。玉鳳山大乗寺(現北宇和郡吉田町)に葬られた。享年45歳。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 村豊 ・ 郷土の先人 109
伊達 村豊 (だて むらとよ)
天和2年~元文2年(1682~1737) 伊予吉田藩第三代藩主。幼名金之助。諱は、はじめ宗春、成任後に村豊と改める。
宇和島藩初代藩主伊達秀宗の七男伊達宗職(伊予吉田藩初代藩主伊達宗純の異母弟)の次男として生まれた。元禄6年、二代藩主の宗保が若くして没したため、同年12月、家督を相続し三代藩主となる。元禄10年従五位下、左京亮に叙せられる。宝永2年、青山下野守忠重の娘と結婚。正徳3年、和泉守に、享保10年、若狭守に改める。
村豊は数次にわたり、公家衆等の接待を命じられている。元禄14年には、院使前大納言清閑寺煕定の接待を命じられた。この時、相役の勅使接待役浅野内匠頭長矩の刃傷事件に遭遇している。「仮名手本忠臣蔵」の登場人物桃井若狭之助は、村豊をモデルにしたものと思われる。
治世中は度重なる災害に見舞われ、藩財政は窮乏した。江戸上・下屋敷の類焼、さらに宝永4年の大地震、享保14年には田畑合わせて790町余が流失し3,500石余を失う風水害に見舞われた。享保15年には、家中の俸禄を削減する増掛米を命じた。その2年後、享保の大飢饉にも見舞われる。風水害による被害高2,000余石、虫害による被害高25,000余石、飢人24,600人と言われる大被害を蒙った。このため幕府より3,000両を借金し、五か年賦で年600両ずつ返還することとして当座をしのいでいる。元文2年没、享年54歳。法号は、大淵院殿澤翁眞龍大居士。東禅寺(現東京都)に葬られた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 宗保 ・ 郷土の先人 108
伊達 宗保 (だて むねやす)
延宝元年~元禄6年(1673~1693) 伊予吉田藩第二代藩主。幼名九十郎,主計。諱は宗義、宗重、後に宗保。
初代藩主宗純の次男として誕生する。母は奥村氏である。元禄4年家督を相続し、同年従五位下能登守に叙せられる。元禄5年、公家衆接待役を命ぜられる。同6年、田村右京太夫建顕の娘と結婚。同年10月2日、江戸において死去。 20歳。治世わずか2年で、特に見るべきものはない。東禅寺(現東京都)に葬られる。法号は、法性院殿知隨禅縁大居士。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 宗純 ・ 郷土の先人 107
伊達 宗純 (だて むねずみ)
寛永13年~宝永5年(1636~1708) 伊予吉田藩初代藩主。幼名は長松のち小次郎。
宇和島藩初代藩主伊達秀宗の五男として、江戸藩邸に生まれる。母は吉井氏。明暦元年、従五位下に叙され宮内少輔となる。明暦3年宇和島藩10万石のうち3万石を分知され吉田藩主となる。分知のいきさつは明らかではないが、秀宗の寵愛深く、その御墨付を受け、さらに仙台藩や彦根藩の仲介があって成立したものらしい。しかし、宇和島二代藩主の宗利は、秀宗が長病で筆のとれない状態であったとして御墨付を偽物と考えており、両者の意見は対立している。
万治元年より、吉田陣屋および陣屋町の建設を始める。この年、酒井宮内大輔忠勝の娘と結婚。翌年、古田陣屋に入る。幕府より3万石の朱印状を受けたのは、貞享元年のことであった。藩の草創期にあたり、また宗家宇和島藩との対立関係、さらに驕慢といわれた彼の性格も相俟ってか、治世中は多事であった。万治元年分知とともに目黒山(現北宇和郡松野町)境界論争が、藩段階の問題として浮上した。寛文5年、幕府の決裁によりようやく落着している。寛文11年、伊達騒動の関係者である伊達市正宗興(兵部の嫡子)の妻とその子息3人を預かる。これは吉田藩が願い出たものであり、仙台藩さらに伊達兵部との親密な関係を思わせる。延宝年間には、高禄の家臣の整理を行っている。分知時、不相応に高禄の家臣を差し向けられていたこともあって、延宝元年、1,300石取の家臣に暇を出したのを手始めに、次々に高禄の家臣に暇を出し、同時に知行高の制限を行っている。
天和3年、山田騒動が起る。もと土佐の浪人で医者であった山田仲左衛門が、宗純の病気治療に成功して召抱えられた。みるみる昇進して、筆頭家老となって藩政を握った。これが発端で、仲左衛門暗殺計画とその失敗、さらに仙台藩への出訴事件が起こった。結局、仲左衛門は専横の儀をとがめられ、仙台藩へ御預となった。この事件の事後処理は、仙台藩の連絡で宇和島藩が執り行っており、宗家の発言権が増大した。
対幕府関係では、寛文元年、仙洞御所の御手伝普請を命ぜられ、巨額の費用を費やしている。寛文5年、日蓮宗不受不施派の僧、日述と日完を幕命により預かる。天和2年、朝鮮通信使の接待を命じられるなどがある。元禄4年致仕、宝永5年10月21日、吉田にて死去した。享年71歳。法号大乗寺殿鎮山宗護大居士。墓は玉鳳山大乗寺(現宇和島市吉田町)にある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料など)
清家 政夫 ・ 郷土の先人 106
清家 政夫 (せいけ まさお)
明治13年~昭和27年(1880~1952) 漁業功労者。日本初の蓄電池式集魚燈の発明者で、まき網漁業の画期的発展に寄与した。
明治13年7月16日、南宇和郡菊川村(現愛南町菊川)において農業をしていた父橋岡金太郎、母ハツの次男として生まれる。6歳のとき、父が亡くなり、高等小学校を卒業すると親類の農家に奉公に出された。ここで4年間農業の手伝いをしたが、いやになり愛媛県師範学校へ進学、卒業後小学校の教員として勤めていた。その後、製網業を営んでいた清家熊太郎の一人娘タケヨと結婚し、同家の養子となった。当初西宇和郡、南宇和郡、沖縄各地で教員生活を送っていたが、明治43年、父熊太郎が死亡したため、教職を退いて帰郷し家業の漁網会社を継いだ。
政夫は進取の気性に富んでいたので網をつくるだけでは飽き足らず、自分でいわし網漁業を始めたほか、遠く朝鮮にいわし基地を作るとともに、南洋諸島にさんご採取にも出かけた。いわし網漁業を操業するとき、火に集魚せしめることが最も肝心なことに気づき、この器具の改良を思い立った。それまでの集魚用照明は、カーバイトによる淡い光に頼っていたので、光力は極めて小さいものでしかなかった。ある日、赤々と灯る電灯の光にヒントを得て、電気集魚の方法を研究することとなった。
昭和3年、大阪の松浦藤一が研究した燈具が、翌4年にほぼ完成した。かねてからこの電化に深い関心をもっていた政夫は、松浦を地元に招き、同年3月20日から3日間福浦湾で、4月には御荘湾で実験を行った。これが愛媛県における最初の試験で、このとき使用したものは32ボルト250ワット集魚燈であった。これはカーバイト式千燭光、火口2個のものよりはるかに強力なものであり、漁民を驚かせた。しかし、この燈具には多くの改良すべき点を認めたので、本格的な研究を始め、蓄電池を湯浅蓄電池、電球を芝浦電機と提携して、昭和8年ついに一応の完成をみた。
それ以来、漁業で光火を必要とする漁船は、すべてカーバイト式から電化に切りかえられ、まき網、敷網の漁業に一大革命をもたらした。この発明は特許こそ取らなかったものの、日本初の電気集魚燈として一躍全国に名を馳せた。前記電気会社と特約して、大分、宮崎、鹿児島、熊本、長崎、和歌山、三重の各県へ出張所を開設して販売したので、その製品は爆発的な売れ行きを示した。そして、昭和11年には、遠く南洋諸島のコロール島にも支店を開設して販路の拡大をはかった。
電気集魚燈の発明は、水産業界に対し清家政夫の最大の功績であるが、このほかに政治家としても、大正7年内海村村会議員を振り出しに郡会議員となり、昭和12年には県議会議員となって3期にわたり活躍した。県議在任中には、予土連絡道路建設の必要性を説き、現在の国道56号線開通を軌道にのせるべく尽力したほか、南宇和実業高校の県立昇格にも、熱意をもって取り組んだ。彼は常々使用人に対し、細心で緻密な頭の持ち主でなければ事業に大成しないと言って、その信念を一生貫き通した。こうした商魂をもっていた反面、昭和19年、艦上戦闘機一機(報国3092号清家号)や警備船を献上し社会奉仕の念も深かった。
いわし網漁業の発展に大きく貢献した彼の功績に報いるべく、南宇和漁業協同組合連合会は、昭和29年9月御荘町長崎に頌徳碑を建立しでいる。昭和27年10月6日、72歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
得能 亜斯登 ・ 郷土の先人 105
得能 亜斯登 (とくのう あすと)
天保8年~明治29年(1837~1896) 幕末維新に活躍した宇和島藩士。
天保8年、林三十郎の長男として生まれる。幼名彦次郎、通称基吉郎、後に玖十郎と改める。諱は通顕。明治2年(1869)4月、本姓の得能に復し、名を恭之助、さらに亜斯登と改めた。安政2年(1855)、家督80石を継いだ。若い時は剣術に熱心で、2度の他所修業を行っている。万延元年(1860)、八代藩主宗城の小姓となり、以後藩政の機密に参画して、薩英戦争、禁門の変、征長の役などに際し、宗城の密使を務めている。この間、藩内では学校目付、元締役、京都留守居などを歴任した。特に、京都留守居では、諸藩の志士と接する機会が多かったと思われる。
慶応4年(1868)、徴士下参与海陸軍務掛に任ぜられる。同年東征軍の編成の時には、有栖川宮大総督のもと参謀に抜擢され、4月江戸城開城の時には、その受取に出向いている。5月甲州が不穏になったため、参謀軍監兼務で甲州に赴いている。翌明治2年一時帰藩後の7月箱館府判事となり、さらに8月官制の改変により北海道開拓権判官に任ぜられた。明治3年12月、脚気のため同職を辞任。翌年より療養を兼ね宇和島に帰った。この間、明治2年には、軍事精勤を賞され金千両を賜っている。明治8年まで療養と称してすべての公職に就かなかったが、明治9年町村会議員となり、以後県会議員となるなど地方政治にも貢献している。
明治29年10月10日死去、享年59歳。泰平寺(現宇和島市)に葬られる。明治36年従四位を追贈された。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
遠山 矩道 ・ 郷土の先人 104
遠山 矩道 (とおやま のりみち)
天保11年~明治21年(1840~1888) 蚕糸業功労者。
天保11年7月13日、吉田藩士の家に生まれ、蚕糸業の振興に働いた先駆者である。明治4年廃藩置県により、旧藩士の授産に努め、明治10年、士族家禄奉還金を集めて「楽終会社」という金融機関を設立した(後の吉田商業銀行)。明治13年「興業社」を設立し、養蚕教師を招いて蚕桑の指導奨励をする。また同14年には、製糸工場を建てた。広島製糸伝習所の工女を迎え、製糸の工女を養成した。南予の産繭を生糸にし、京都その他に販路を広め品質の好評を得た。また、佐賀県から桑苗「九紋竜」、福島県から「赤熟」を導入した。
明治16年5月農商務省の蚕糸諮開会に出席し、その見聞事項を印刷し、同業者に配布して斯業の発展に資した。工女を率いて、大分県の製糸法を見学させたこともある。明治17年には、「経済維持」と題する冊子を印刷して栽桑養蚕の普及発展の必要性を力説した。明治18年、東京上野で開催された五品共進会で繭糸部門の審査会補助員となり、諸先輩の意見を収録し「東京土産」と題して海南新聞等に連載して蚕糸業者の参考に供した。このように私財を投じて、蚕糸業界発展のため人々の啓蒙に大きな活躍をした。明治21年1月18日、47歳で死去。立間の大乗禅寺に葬られる。なお、明治27年7月、同32年10月県知事から追賞され、同43年6月、第9回関西府県連合共進会で、農商務大臣から追賞された。町民会館の傍らにある「遠山矩道翁記念碑」は、この地方の蚕糸業が最盛期を迎えようとした大正6年、県会議員清家吉次郎の唱道によって建てられたものである。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
富沢 赤黄男 ・ 郷土の先人 103
富沢 赤黄男 (とみざわ かきお)
明治35年~昭和37年(1902~1962) 俳人。
明治35年7月14日、西宇和郡川之石村(現西予市)に生まれる。本名正三。別号蕉左右。家は幕末から医を伝え、父も医師。宇和島中学校卒業後、家業の医師を嫌い、早稲田第二高等学院文科に入学。大正15年早稲田大学政経学部卒業。東京で会社員生活。
昭和5年郷里川之石に帰り、第二十九銀行に勤務。俳句をはじめ「ホトトギス」にも投句した。「泉」で生涯の友水谷砕壷を得る。昭和10年1月、俳句の近代化・革新化を旗印とする新興俳句運動の一つとして創刊された「旗艦」(日野草城主宰)に参加。評論活動も展開した。句風も自由主義的な立場に立ち、季語を超え、口語表現によるモダニズムへと傾く。
昭和12年11月、工兵隊の将校として中国へ出征し、約2年半転戦した。その間、血みどろな戦場にあって「銃眼によれば白鷺とほくとべる」「戦闘はわがまへをゆく蝶のまぶしさ」など、戦争をテーマにした俳句をつくる。同15年マラリアにかかり帰国した。陸軍中尉に昇進。昭和16年8月、才気あふれる作品を集めて処女句集『天の狼』を刊行。翌17年7月、北千島・占守島など北辺の守備につく。
戦後は「太陽系」を創刊。昭和27年「薔薇」を創刊主宰し、ひたすら新興俳句の道を進み詩的可能性の限界を追求した。句集に『蛇の笛』『黙示』がある。「蝶墜ちて大音響の結氷期」「石の上に秋の鬼ゐて火を焚げり」 昭和37年3月7日死去、59歳。墓所は武蔵野小平霊園。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
冨沢 礼中 ・ 郷土の先人 102
冨沢 礼中 (とみざわ れいちゅう)
文化8年~明治6年(1811~1873) 宇和島藩医。礼中のち大珉と称す。
藩医冨沢正玄の次男として、文化8年5月14日に誕生。文政IO年、猿解体などで活躍していた兄が病没したため、眼病を患っていたにもかかわらず、礼中が嫡子となった。天保4年、修行扶持2人分を受け江戸で修業。天保15年、父の家督を継ぎ15人扶持、薬種料拾俵を受けた。
弘化3年江戸詰めとなり、伊東玄朴について蘭方医術を学ぶ。弘化4年、師玄朴と共に前藩主宗紀の娘正姫に種痘を施して成功、嘉永元年には、藩主宗城から医術上達を褒められマラリヤ熱の特効薬キナエン(解熱剤)を贈られた。同年、伊東瑞渓と変名した高野長英を宇和島に同伴し、その世話に当った。年来蘭書翻訳に心づかいがあったとして、嘉永2年には褒美の羽織をうけている。嘉永3年、砂澤杏雲らと種痘を命ぜられ、種痘場所確保に尽力している。
文久3年持病の眼病のため隠居願を提出、息子の松庵に家督を譲ったが、以前から携わってきた御庶子方療治役は続け、3人扶持を受けた。明治6年4月没した。行年61歳。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
兵頭 精 ・ 郷土の先人 101
兵頭 精(ひょうどう ただし)
明治32年~昭和55年(1899~1980) 女性飛行家。
明治32年、北宇和郡北宇和郡好藤村東仲(現在の鬼北町)の、農家の四女に生まれる。11才で父と死別、兄や姉に育てられる。赤ちゃんの時から小学校へ連れられ、教室の隅で先生の話を聞いていた。門前の小僧経を読むで、5才の時には小学1~2年生程の学力が身についていたといわれる。そのため、高等小学校卒業後は、女学校3年に飛び級した。その後、兄や姉の援助で松山済美高女を卒業した。
教師や女医となるように奨められ、大正8年1月、大阪で薬剤師の見習になるが、同年11月に上京、千葉県津田沼の伊藤飛行機研究所に入所する。民間の飛行機練習所は全国に4ケ所あった。進学率2%時代の大卒初任給が40円前後のころ、飛行機研究所の授業料は月額120円。練習費は1分なんと2円の高額であった。そのため、通常は6ヶ月の練習期間が費用の工面から3年6ケ月もかかった。
当時は、飛行家に男性はもちろん女性がなるなど正気の扱いはされなかった。大正11年、22歳で三等操縦士の免状をとり、日本女性初の飛行家が誕生するに至った。身長は1㍍43㌢の小柄だったので、座席にすっぽり隠れ、見る方も無人機が飛んでいるのかと思ったそうである。
花々しいデビューから間もなく、忽然として航空界から姿を消した。その後も飛行機研究所の設立を計画したり、弁護士を志したり、なかなか進歩的であった。NHKテレビ小説 「雲のじゅうたん」のモデルともなった。昭和55年4月23日、没した。81歳。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
中川 千代治 ・ 郷土の先人 100
中川 千代治 (なかがわ ちよじ)
明治38年~昭和47年(1905~1972) 宇和島市長。
明治38年11月6日、西宇和郡矢野崎村向灘(現八幡浜市)で生まれた。昭和3年早稲田大学政経学部を卒業して予州銀行に入り、昭和9年吉田支店長になった。その後明治製菓に転じ、25年まで三津工場長を務め、29年には宇和島合同組合理事長に就任した。
昭和25年から国連県副本部長に推され、日本代表として世界総会に二度出席した。世界各国の貨幣を集めて「平和の鐘」を作り、国連本部に寄進した。昭和34年5月、宇和島市長に当選。新制中学校の施設整備、上水道拡張事業、市行政事務の改善、宇和島病院の改築などを推進した。昭和38年5月再選され、都市整備事業と地域開発に取り組み、42年5月退任した。昭和47年2月25日、66歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
中村 純一 ・郷土の先人 99
中村 純一 (なかむら じゅんいち)
明治34年~昭和60年(1901~1985)郵政官僚、衆議院議員・宇和島市長。
明治34年10月28日,宇和郡宇和島町(現宇和島市)で生まれた。宇和島中学校、第一高等学校を経て大正14年東京帝国大学英法科を卒業した。逓信省に入り、各地方逓信局企画課長を経て関東逓信局長になった。以後、興亜院経済課長及び調査官、逓信省電報局長・貯金保険局長を歴任して、昭和20年6月退官した。
昭和24年1月の第24回衆議院議員選挙に、愛媛第3区から民主自由党公認で立候補当選したが、27年10月の選挙では落選した。 30年5月宇和島市長に公選され、市財政の再建と近代都市の建設に取り組んだ。昭和32年には、来村を合併、宝酒造会社社長大宮庫吉の援助で、市公会堂建設事業に着手するなどの事績をあげた。昭和60年10月2日、83歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
中平 常太郎 ・ 郷土の先人 98
中平 常太郎 (なかひら つねたろう)
明治12年~昭和39年(1879~1964) 社会事業家、参議院議員、宇和島市長。
明治12年3月20日、西宇和郡伊方浦(現西予市伊方町)で生まれた。明治44年9月北宇和郡会議員,大正3年から宇和島で醤油醸造業を経営、4年宇和島町会議員、大正14年12月~昭和9年市会議員を務めた。
社会事業に尽し、昭和2年10月宇和島市民共済会を創立してその会長となり、窮貧救助・失業保険・罹災救助に当たった。授産場を設けて団扇の製造販売を行い、その活動は全国的に注目された。
戦後の昭和21年3月、県労働委員会委員長となり、22年4月社会党から推されて第1回参議院議員選挙に立候補、久松定武と共に当選した。ただし、3年議員であったため、次の25年6月の選挙には立たなかった。昭和26年5月宇和島市長に公選され、30年5月まで一期在任した。市立宇和島病院内に産院を建設するなど、福祉面の施策を図った。昭和39年7月19日、85歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
国松 福禄 ・郷土の先人 97
国松 福禄 (くにまつ ふくろく)
明治23年~昭和33年(1890~1958) 弁護士・県会議員・宇和島市長。
明治23年6月9日、北宇和郡津島村高田(現宇和島市津島町)で旧里正・国松藻奇智の長男に生まれた。父は、明治32年9月~40年9月県会議員であった。宇和島中学校を経て中央大学に学んだが、京都第三高等学校予科に転学、大正6年東京帝国大学法科大学を卒業した。
大正7年宇和島で弁護士を開業、15年以来市会議員を経て、昭和6年9月~10年9月県会議員を務めた。昭和15年宇和島市会議員に戻り、議長を務め、傍ら宇和島新聞の経営を引き受けて「南予毎日」と改題した。戦後、昭和22年第1回宇和島市長選挙に立候補、中川千代治を破って当選した。市政では戦災復興工事、宇和島病院、図書館の新築、宇和島城の市移管、赤字財政の克服などを推進、昭和25年3月12日、天皇陛下を奉迎、同年11月市制30周年記念式典を挙行した。
昭和26年4月市長再選を期したが、中平常太郎に決選投票の末敗れた。昭和33年2月15日67歳で没した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
中 原 渉 ・郷土の先人 97
伊達 宗徳 ・ 郷土の先人 96
伊達 宗徳 (だて むねえ)
文政13年~明治38年(1830~1905) 宇和島藩第九代藩主。幼名扇松丸、後に兵五郎。諱は初め紀周、宗周、後に宗徳。
文政13年閏3月27日、第七代藩主宗紀の三男として生まれる。天保8年(1837)第八代藩主宗城の世子となる。弘化3年(1846)従四位下、大膳太夫に叙任される。安政5年(1858)安政の大獄に関連して隠居した養父宗城の跡を継ぎ、遠江守と称す。同年侍従となる。流動する幕末維新の中にあって、養父宗城の政治活動を支え、藩内治に務めた。元治元年(1864)、長州征伐に伴い領内の伊方浦へ出陣している。
明治2年(1869)、宇和島藩知事となる。これと前後して数回藩職制の大幅な変更を実施し人材の登用を図ると共に、従来の十組による農村支配をやめ、五郷に改編している。しかし、明治3年、大規模な世直し一揆である野村騒動かおこるなど混乱は続いている。
明治4年7月15日、廃藩置県に伴い知藩事を免ぜられ、東京に移る。明治24年帝国議会に名を連ねている。明治17年伯爵、同24年、養父宗城の勲功により侯爵となる。官位も累進し、明治33年従二位となった。明治36年、宇和島に転籍、同38年11月29日死去。同日勲四等・旭日小綬章を授けられた。法名は、霊照院殿旧宇和島城主正二位馨山宗徳大居士。金剛山大隆寺(現宇和島市)に葬られる。75歳。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 宗城 ・ 郷土の先人 95
伊達 宗城 (だて むねなり)
文政元年~明治25年(1818~1892) 宇和島藩第八代藩主。
文政元年8月1日、幕臣山口直勝の子として生まれる。幼名亀太郎、のち知次郎、兵五郎と改名した。実名宗城、藍山と号す。文政12年、第七代藩主宗紀の養子となる。第五代藩主村候の子直清が山口氏へ養子となり、宗城はその孫であったと言う血縁による。天保5年元服し、従四位下大膳大夫に任ぜられる。天保11年、佐賀藩主鍋島斉直の娘猶子と結婚する。天保15年襲封、遠江守に任ぜられ、弘化3年侍従となる。襲封以来、文武を奨励し、特に蘭学の導入に意を用いた。砲術では、板倉志摩之助を登用、弘化2年には、大砲鋳造所、火薬製造所を設立し、後に藩内砲術諸流派を威遠流に統一した。
医学では伊東玄朴に学んだ冨沢礼中などを登用し、藩内に種痘所を設置している。嘉永元年高野長英を招いて蘭書の翻訳や教授を行わぜ、さらに同6年には大村益次郎を招いて同様の業務に従事させるとともに、軍艦製造の研究を行わせている。藩内からは前原巧山を登用して蒸気船の作成に当たらせ、安政6年に完成している。また産業奨励にも意を用い、安政3年物産方役所を創設した。また薩摩藩より田原直助を招き、「宇和島出産考」を編纂させている。
福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と言われた。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中首座・阿部正弘に幕政改革を訴えた。阿部正弘死去後、安政5年(1858年)に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯や水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、直弼は紀州藩主・徳川慶福を推した。直弼は大老強権を発動、慶福が14代将軍・家茂となり、一橋派は排除された。いわゆる安政の大獄である。これにより宗城は春嶽・斉昭らとともに隠居謹慎を命じられた。宗紀の三男宗徳にその職を譲り、伊予守と称した。
文久2年11月、朝命を受けて上京する。以来、幕末多端の折から、同3年11月、慶応3年3月、同年12月と4度の朝命をうけて上京している。その間、幕政参謀や朝政参与を命じられ、朝幕間で斡旋に尽力した。慶応3年12月28日新政府の議定となって以後、明治4年までの間に、軍事参謀、外国掛、外国事務総督、大阪裁判所副総督、外国官知事、参議、民部卿、大蔵卿を歴任、あるいは兼任している。この間、明治元年には堺事件を処理し、明治2年には、鉄道敷設資金を英国より借り入れるための全権を務めている。
明治4年清国欽差全権大臣となり、日清修好条規を締結した。その後は、国事諮詢のため麝香間詰を主として務め、外国皇族の接待などにも従事している。明治22年勲一等に叙せられ、同25年従一位となる。明治25年(1892年)、児島惟謙の司法官弄花事件に際しては、反児島派から、児島の元主君の立場として辞職を勧める役回りを任された。宗城は、依頼者(反児島派かつ政府側の人間)には、「会って説得したが、児島は涙ながらに拒否した」と書き送った。しかし、実際には児島には会っておらず、逆に児島宛に同じ書簡を同封して、留任を迫る旨の書簡を送った。
明治25年12月20日、東京今戸の邸にて死去。享年74歳。東京谷中の墓地に葬られ、遺髪を宇和島龍華山等覚寺に葬る。法名は、靖国院殿旧宇和島城主従一位勲一等藍山維城大居士。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料など)
伊達 宗紀 ・ 郷土の先人 94
伊達 宗紀 (だて むねただ)
寛政4年~明治22年(1792~1889) 幕末の藩政改革を推進した第七代宇和島藩主で書家。幼名は扇千代丸、扇松丸さらに主馬。実名は初め候止、宗正のち宗紀,蘭台・春山と号す。
寛政4年9月16日、六代藩主村壽の長男に生まれる。文化7年(1810)世子となり、同9年元服。同年末に、従四位下大膳大夫となる。文政7年9月12日放封、遠江守のち侍従となる。
襲封と同時に、当時窮乏の極にあった藩財政の再建に取り組む。すでに倹約中であったが、文政9年より5か年の厳略(厳しい倹約)、引き続き天保2年(1831)、再度の5か年厳略を命じる。文政12年(1829)、借財を無利息200か年賦償還とし、大坂商人の承諾を取り付ける。また、家臣の窮状を救うため、御貸下の米金・民間の相対借ともに20か年以前のものは引き捨てを命じる。一方、殖産興業に意を用い、文政8年木蝋専売制を実施。同11年、漁業振興のため船板用材の支給を増加させ、天保2年には農村復興のため内扮検地を命じている。さらに天保6年には、融通会所を設立した。その他,木綿座・塩座・綿座・木地挽座・錫座などを興し、巨額を費した2度の御手伝普請を乗り切って、借財の返済を進めた。天保14年天明以来郷中より差し出された御用金の返済を開始。隠退の時には、6万両の蓄財を残したという。
新知識の吸収にも尽力している。天保9年、藩士小池九蔵を佐藤信淵に入門させ、多くの経済書など信淵学の導入を図った。同門の藩士若松惣兵衛を、代官に抜擢した。天保13年には、板倉志摩之助等を下曽根金三郎に入門させ砲術を学ばせ、弘化元年(1844)には、火薬製造所を開設した。また、文武を奨励し、藩校明倫館に培寮・達寮の寄宿舎を設置すると共に、施設を拡充して藩士教育の充実を図った。天保2年には伊達家刑律の改正を行っている。弘化元年7月16日、致仕、養嗣子宗城に封を譲り、剃髪して伊予入道のち春山と称した。
嘉永6年(1853)ペリー来航時の幕府の下間に対し、攘夷の不可能・期限を定めた貿易・武備の拡充・幕政改革を説き、将軍継嗣問題でも宗城と連携を保ちながら井伊直弼に働きかけている。明治7年(1874)6月以降は、宇和島に定住した。翌年製産場が廃止になって以来、旧領内の田地や金禄公債の購入を行い、伊達家経済の確立に意を用いた。
明治13年正四位、翌年従三位、同20年正三位、同22年正月従二位、同年11月25日正二位に累進し、同日死去した。享年97歳、百歳翁と称した。法名は、霊雲院殿前宇和島城主春山宗紀大居士。宇和島金剛山大隆寺(現宇和島市)に葬られる。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 村壽 ・ 郷土の先人 93
伊達 村壽 (だて むらなが)
宝暦13年~天保7年(1763~1836) 宇和島藩第六代藩主。幼名兵五郎。
宝暦13年正月4日、五代藩主村侯の四男として生まれた。母は村候夫人。安永5年(1776)、従四位下大膳太夫となる。翌6年元服。天明5年(1785)仙台藩主伊達重村の娘順子と結婚。寛政6年(1794)閏11月6日襲封。同年12月侍従遠江守となる。
寛政6年襲封とともに教育の充実を布達し、徒士以上で14歳以上の者はすべて藩学に学ぶことを命じている。藩学普教館(もと内徳館)には、尾藤二洲に学んだ岡研水を教授とするなど、古学派中心であった所に朱子学を導入している。財政的には、天明の大飢饉後も度重なる天災に見舞れ、極度の窮乏状態にあった。そのうえ、寛政11年、東海道筋川普請助役を命じられ1万5千3百両を費し、文化13年(1816)には、美濃・尾張・伊勢など東海道筋河川改修助役を命じられて、1万2千8百両の支出を余儀なくされている。
これらのため倹約令や藩士からの借上も続発する中で、文化9年(1812)萩森騒動が起こった。藩財政再建策をめぐって番頭の萩森蔀と家老が対立し、萩森が刃傷沙汰をおこして切腹させられた事件である。その後も、財政再建への模索が続けられた。文化10年歩一銀制の確立、翌11年の川原淵組、文政3年(1820)の津島組の内扮検地などである。
文化14年帰国、病と称し、世子宗紀に藩政を代行させる。文政3年、右近衛権少将に任ぜられる。文政7年致仕して、右京太夫と称した。天保7年宇和島で死去、73歳。法名は、南昌院殿壽山紹直大居士。墓は龍華山等覚寺(現宇和島市)にある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 村候 ・ 郷土の先人 92
伊達 村候 (だて むらとき)
享保10年~寛政6年(1725~1794) 宇和島藩第五代藩主。幼名伊織。譚は初め村房のち村隆・村候・政徳・政教さらに村候に復した。天合・楽山・南強と号す。
享保10年5月11日、四代藩主村年の長男として誕生、母は仙台藩主吉村の娘富子である。享保20年、満10歳で襲封。元文2年(1737)従四位下大善太夫に叙任され、寛延2年(1749)遠江守となる。翌3年佐賀藩主鍋島宗茂の娘護と結婚する。宝暦2年(1752)侍従となり、天明6年(1786)左近衛権少将となる。
治世中は、藩政改革を推進した。寛保3年(1743)初めて入部の時、倹約と共に武士の心得を25ヵ条にわたって示し、士風を引き締めている。同年、鬮持制をやめ、高持制に復帰した。多田組での試行を終え、百姓の土地所有を自由化することに踏み切ったのである。また教育を奨励し、他所へ修業に行く者には修業扶持、弟子教育の者には弟子扶持を支給することを布達している。延享4年(1747)には、古義堂の伊藤蘭嵎門下の安藤満蔵(陽州)を儒臣として招き、寛延元年(1748)藩学内徳館を創設した。また、仙台藩より末家の待遇を受けることを不当とし、幕閣の調停により対等の別家であることを認めさせている。藩財政の再建にも尽力した。
延享2年(1745)、7か年の倹約令と棄捐令を出す。殖産興業では保内組を中心に唐櫨の植林を奨め、宝暦4年(1754)、櫨実などの他所売りを禁じた。一方で、城下の3商人に晒蠟座を結成させて、仕入販売を独占させた。また宝暦7年には、泉貨紙を専売制とし、同9年には山奥・野村・川原淵各組の生産する紙をすべて藩庫に納め、大坂蔵屋敷で売りさばくよう命じている。これらの治績が認められ、寛政4年(1792)幕府から馬一匹が贈られている。しかし、この改革も天明の大飢饉以降行き詰まり、百姓一揆や村方騒動が頻発し、庄屋が豪農化した。
三百諸侯中屈指の良主といわれ、「甲子夜話」や「耳袋」にも逸話が載せられている。文武に優れ、『楽山文庫』『伊達村候公歌集』『白痴篇』などの著書がある。
寛政6年9月14日、江戸で死去。享年69歳。法名は、知止院殿羽林楽山静公大居士、七回忌の時、大隆寺殿羽林中山紹典大居士と改める。墓は金剛山大隆寺(現宇和島市)にある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 村年 ・ 郷土の先人 91
伊達 村年 (だて むらとし)
宝永2年~享保20年(1705~1735) 宇和島藩第四代藩主。幼名は伊勢松のち伊織。諱は宗貞のち貞清、元服して村昭、さらに村年となる。
宝永2年(1705)正月16日、三代藩主宗贇の三男として誕生、兄の夭逝により、宝永7年世子となる。父宗贇の死により、正徳元年(1711)4月13日、満6歳で襲封。このため、幕府より目付が派遣されている。正徳5年、従四位下、遠江守に叙任される。享保2年(1717)元服、同9年仙台藩主吉村の娘と結婚。同13年侍従に任官する。
治世中は、財政難の連続であった。襲封翌年には、城下250軒余が焼失する大火に見舞われ、翌正徳3年には厳しい倹約令を出し、在国中で200石取以上の家臣に半知を命じている。享保年中(1716~1736)には、数度にわたる洪水、あるいは大旱魃に襲われた。特に、享保9年(1724)の大旱魃による損毛6 万石余、同12年洪水等による損毛2万石余、同14年同じく洪水による損毛4万5千石余と記されている。さらに、享保17年享保の大飢饉による損毛9万石余が重なり、この年幕府より1万両の拝借金を受けている。一方で、享保4年には、御手伝普請として赤坂溜池の工事を命じられている。この間、倹約令の徹底、植林の奨励、飢饉の救済などに努め、高持制復活の検討などを行っている。
その効果も現れない享保20年5月27日、参勤交代の帰途播磨国加古川で死去した。享年30歳。法名は、泰雲院殿宗山紹沢大居士。等覚寺(現宇和島市)に葬られる。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 宗贇 ・ 郷土の先人 90
伊達 宗贇 (だて むねよし)
寛文5年~宝永8年(1665~1711) 宇和島藩第三代藩主。幼名は辨之助、後に主馬。諱は基弘、宗昭のち宗贇。
寛文5年正月15日、仙台藩主伊達綱宗の三男として誕生。貞享元年(1684)、宇和島藩二代藩主宗利の養嗣子となる。宗利が50歳になっても嗣子がなかったためである。同年、将軍綱吉に拝謁。宗贇は無官であったが、「四品の次御譜代四品の先」の格式で処遇され、これが後世の先例となった。
貞享2年(1685)従四位下、紀伊守に叙任される。元禄3年(1690)宗利の次女三保姫と結婚。元禄6年11月4日襲封、同年遠江守となる。元禄9年、10万石高直しが幕府より許可される。吉田藩に3万石を分知し7万石となっていた家格を、元の10万石に復帰させたのである。理由は、新田改出の増加、従来より幕府に対し10万石並の奉公をしてきたことを挙げているが、目的は家格維持のためであろう。同年侍従となる。
この後、近家塩田の築造や樺崎新田、長者ヶ駄馬新田、その他の新田開発が進んでいるが、治世中の藩財政は窮乏の度を加えた。商人や在浦からの借財、倹約令や家臣の減封が相次ぐ状況になった。宝永8年(1711)2月18日、隠居の宗利没後2年余で没した。享年46歳。法名は、太玄院殿天山紹光大居士。等覚寺(現宇和島市)に葬られる。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 宗利 ・ 郷土の先人 89
伊達 宗利 (だて むねとし)
寛永11年~宝永5年(1634~1708) 宇和島藩二代藩主。幼名は犬松のちに兵助。
寛永11年12月18日、初代藩主秀宗の三男として生まれる。兄たちの死去で、承応2年(1653)世子となり、翌3年従五位下、大膳太夫となる。明暦3年(1657)7月21日襲封。弟宗純に古田3万石が分知されたため、実質7万石の領主であった。万治元年(1658)美作国津山城主松平光長の娘稲姫と結婚。寛文3年(1663)侍従、遠江守となる。
治世中、藩政各方面の整備が一段と進められた。前代からの土佐藩との境界論争があった沖之島と篠山の問題も、万治2年には幕府の裁許で解決した。新たに吉田藩との間に起こった目黒山境界論争も、寛文5年(1665)には決着を見ている。また寛文年間(1661~1673)には、宇和島城の大改修を行い、藩主の居館である浜屋敷の築造も行った。諸法令も、この治世中に定められたものが多く、後代の基本となっている。
寛文10年(1670)から同12年にかけて行われた八十島治右衛門による内ならし検地は、鬮持制という独特の土地所有制度を生み出している。しかし,元和元年(1681)には、「新古の未進三万石」を赦免しているように凶作が打ち続き、藩財政はかなりに窮迫し、度々の倹約令が出される状況になった。元禄6年(1693)致仕して、封を養嗣子宗贇に譲った。宝永5年(1708)12月21日宇和島で没す。享年74歳。法名は天梁院殿賢山紹徳大居士、等覚寺(現宇和島市)に葬られた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
伊達 秀宗 ・ 郷土の先人 88
伊達 秀宗 (だて ひでむね)
天正19年~明暦4年(1591~1658) 宇和島藩1O万石の初代当主。幼名は兵五郎、義山と号した。
天正19年9月25日、伊達政宗を父とし吉岡局を母として生まれた。この時点では、政宗の正室愛姫に男子がいなかったため、周囲からは「御曹司様」と呼ばれて伊達家の家督相続者と目されていた。文禄3年(1594)秀吉に謁見し、その人質となる。文禄4年(1595年)7月に秀次事件が起こると、政宗もこの事件に連座し、秀吉から隠居して家督を兵五郎に譲ることと、伊達家の伊予への国替えを命じられた。結局は徳川家康の取りなしにより許されたが、8月24日に在京の重臣19名の連署による起請文提出を命じられ、「もし政宗に逆意があればただちに隠居させ、兵五郎を当主に立てる」旨を誓約させられている。文禄5年秀吉の猶子となり、聚楽第で元服。秀吉の一字を賜って秀宗と称し、従五位下侍従に任ぜられた。慶長5年(1600)関ヶ原の戦の時、父政宗は東軍として上杉景勝討伐に参加、秀宗は人質として宇喜多秀家の邸に止められた。
慶長7年(1602年)9月、徳川家康に拝謁し、徳川氏の人質として江戸に向かった。この時、政宗は秀宗の守役に細かな教育方針を指示している。だが、正室愛姫との間に虎菊丸(伊達忠宗)が生まれ、夭逝せずに無事に育ったため、慶長8年(1603年)1月に、政宗は虎菊丸を家康に拝謁させ、秀宗の立場は微妙になった。慶長14年(1609年)、秀宗は家康の命令により、徳川四天王で重臣の井伊直政の娘の亀を正室として、徳川陣営に取り込まれる事になる。だが、弟の虎菊丸が、慶長16年(1611年)12月に江戸城で元服し、将軍秀忠から一字を賜って忠宗と名乗った事により、事実上秀宗は、伊達家の家督相続者から除外される事になった。この事情に関しては、政宗の長男であったが生母の飯坂氏が側室だったために、本家の家督を嗣ぐことができなかったとされているが、これは誤りとされている。実際には、秀吉・秀頼の側に仕えたことから、徳川氏の世では仙台藩主としてふさわしくないという理由で除外されたとされている。
慶長19年(1614)大坂冬の陣に際し、父政宗とともに出陣する。同年12年28日、政宗の勲功と秀宗の忠義を賞し、宇和郡10万2,154石を与えられた。慶長20年3月18日板島丸串城に入る。同年の夏の陣では在国している。
入部時の家臣団は、給知侍200人余、同格扶持切米名侍480人余、足軽770人余であった。桑折左衛門を中心に、桜田玄蕃を侍大将、山家清兵衛を惣奉行とし、政宗より分けられた家臣を中核に編成されている。元和年間(1615~1624)に、板島は宇和島と改称され、寛永年間(1624~1644)にかけて城下も整備されていった。元和4年(1618)藩政の重点として、地方知行、大衆行跡、江戸元賄銀子をあげ、なかでも家臣団の統制を重要としている。
元和6年山家事件が起こる。秀宗入部の時の諸経費は、父政宗よりの借り入れ金て充当したが、その返済方法で藩論が分かれた。結局、山家清兵衛(やんべ せいべえ)の意見で、政宗の生存中3万石を隠居料として送ることで結着した。この問題や大坂城石垣修築問題等がこじれ、山家清兵衛が秀宗の命で討たれた事件である。秀宗はこれを幕府や政宗に報告しなかったことから、激怒した父によって勘当される。山家清兵衛はもともと政宗の家臣であり、政宗側の人間であった。そのためか、事あるごと様々なことに口を挟み、秀宗は疎ましく感じていたとされる。
翌元和7年(1621年)、怒りの収まらない政宗は、老中土井利勝に対して宇和島藩の返上を申し入れた(和霊騒動)。結局、利勝のとりなしで政宗は申し入れを取り下げ、政宗と秀宗は面会し、その場で秀宗は長男であるにもかかわらず仙台藩の家督を嗣げなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされていたことから、政宗に対し恨みを持ったことを話した。政宗もその秀宗の気持ちを理解し、勘当は解かれた。この件をきっかけとして、親子の関係は良好になったとされる。承応2年(1653)、清兵衛のために山頼和霊神社が創建されている。
勘当が解けてから政宗と秀宗の仲は親密になり、和歌を交歓したり、「唐物小茄子茶入」と秘蔵の伽羅の名香「柴舟」が政宗から贈られた。これら政宗から秀宗に贈られた品は、宇和島藩伊達家の家宝として秘蔵された(他に茶壷の銘冬寒、銘仙々洞などがあり、宇和島市立伊達博物館の企画展・特別展で見ることができる)。
寛永13年(1636年)5月に政宗が死去し、6月に仙台の覚範寺で葬儀が営まれた際、秀宗は次男の宗時と共に葬儀に参列した。秀宗が仙台を訪れたのはこの1回だけである。
在職中の御手伝普請としては、元和6年の大坂城石垣工事や寛永13年(1636)の神田橋石垣工事があり、軍役としては寛永14年島原の乱に出兵している。元和8年(1622)遠江守に任ぜられ、寛永3年(1626)従四位下となる。明暦3年(1657)致仕し、7万石を世子宗利(二代宇和島藩主)に、3万石を五男宗純(初代吉田藩主)に譲った。明暦4年6月8日、江戸で死去。この時、家臣4名が殉死している。法名等覚寺殿義山常信大居士。宇和島の龍泉寺(のち等覚寺と改名)に葬られた。
秀宗は藩祖だが、宇和島ではそれほど崇敬を集めていない。市内には顕彰碑も銅像も無い。これは幕末・維新期の藩主宗紀と宗城が名君とされるために、その陰に隠れてしまったとされている。一方で、秀宗も名君だったと伝わっている。参勤交代の際に、帰国途中で海が荒れて船が転覆しそうになった時、秀宗だけが泰然自若、少しも動じなかったと。あるいは、豊臣秀頼との組み討ち遊びの時、年長の秀宗は秀頼を組み敷いたが、踏みつける際に咄嗟に懐紙を取り出し直に踏まなかった。秀吉・淀殿夫妻をはじめ豊臣家の面々は、秀宗に大いに感心したと伝わる。秀宗は、伊達仙台藩の支藩扱いされるのを嫌い、将軍徳川家光との御成之間で対面の際、異母弟忠宗より上座に着座して、政宗の長男、仙台藩の風上に立つ事を示している。また秀宗は、政宗に似て和歌に堪能だった。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料、ウィキペディアなど)
穂積 重磨 ・ 郷土の先人 87
穂積 重磨 (ほずみ しげまろ)
安永3年~天保8年(1774~1837) 宇和島藩士。家禄229石余の鉄砲頭。通称源兵衛。
家祖初代鈴木源兵衛は、伊達政宗の臣。伊達秀宗の付人として宇和島に来住。鈴木家第六代増在の子、本姓穂積を名乗る。気慨に富み、藩士の多くが漢学を学修し、皇朝の学即ち国学を修むる者がいないのを遺憾に思った。率先この学を究め、藩中にその基を開こうとして本居太平に入門し、刻苦勉励して国学を学び、その著作・詠歌などを送って教えを乞うた。
重麿の著作には,『言語之重称木栄(ことといのいかしゃくくはえ)』56冊・『神楽歌考後釈』6冊・『書紀歌八重塩土(しょきのうたやえのしおつち)』2冊・『ちぶりの日記』・『三大考論書』・『神かねの日記』など国学関係の書10種がある。本居太平が命名した彼の歌集『桜垣内家集』は、万葉集の古体を尊び、近世振りを排しているといわれる。彼は極めて健筆で、『三楠実録』・『楠正行戦功記』・『赤穂精義内侍所』など忠臣義士の書、『先代萩』・『忠婢サツ之伝』などの貞女節婦の書数10部を著した。特に女子の読み物には、いちいち振り仮名を付け、その仮名で書いた部分には其側に漢字を付けるなど注意周到、親切丁寧な書き振りであった。
彼の子重樹も国学者で維新後宇和島藩校の皇学教授となり、彼の孫穂積陳重・八束の兄弟は、いずれも明治期の法学者として有名である。天保8年63歳で死没し、選仏寺に墓がある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
二宮 忠兵衛 ・ 郷土の先人 86
二宮 忠兵衛 (にのみや ちゅうべえ)
天保10年~明治45年(1839~1912) 石灰業。
宇和島藩高山浦(現西予市明浜町高山)の生まれ。高山の石灰は明治元年前後、3~4軒の生産業者が近隣へ売りさばいていた程度であったが、生産量がのびるにつれ石灰業者は船持ちを兼ね宮崎,中国へ販路を広げていった。忠兵衛はそれにあきたらず、北前船で北陸方面まで手をのばし販路開拓をやった。ほぼこういう時代が昭和10年ごろまで続いた。
忠兵衛の開拓によって、明治時代には80余軒の石灰業者が生まれ、大二宮忠兵衛商店の会符をつけた石灰が、北陸路を席捲した。年末には北陸から石灰代金が宇和島の銀行に送金され、その金は莫大なものであったといわれる。今日では石灰業も衰運の一路をたどっているが、明治~昭和20年代の石灰産業の隆盛は、忠兵衛の功績である。明治45年4月14日、73歳で死去。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
二宮 斧七 ・ 郷土の先人 85
二宮 斧七 (にのみや おのひち)
明治22年~昭和11年(1889~1936) 実業家。
明治22年、東宇和郡高山村(現西予市明浜町高山)宮野浦で、春太郎の長男として生まれる。家業は漁業の網元であるが、斧七の生まれた当時は家運が傾き、貧しい生活を送っていた。15歳で山下鉱業の前身である横浜石炭商会に給仕として入るが、病気で翌年帰郷し宇和町役場、高知の中村税務署に勤めたが、24歳のとき再度上京、山下家の会社にもどった。
下積みからたたきあげられ、専務取締役となり「山下の海(汽船)は白城定一、ヤマ(鉱山)は二宮」といわれるほど、白城と二人で山下の会社を盛り立てたという。その後、若松石炭株式会社を創立し、「若松の斧七」と業界に知られた。
親思い、子思いの真情は『父に捧く』の中にみられる。神仏を尊び、郷土と家庭を大切に愛した人である。昭和11年10月30日、47歳で死去。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
左氏 珠山 ・郷土の先人 84
左氏 珠山 (さし しゅざん)
文政12年~明治29年(1829~1896) 教育者。
文政12年8月23日、宇和郡舌間浦(現八幡浜市舌間)に生まれた。名は撞、字は子豫、家は代々修験道を奉じ、宝珠院と呼ばれた。珠山は初め禅を学び、北宇和郡丸穂村(現宇和島市)の泰平寺に居た。元来学問を好み、志を立て上阪し、篠崎小竹の門に学んだ。
21歳の時、宇和島に帰り上甲振洋に10年間漢学を学んだ。東宇和郡卯之町の申義堂の教授となり、次いで宇和島藩侯に聘されて厚遇をうけ、明倫館の教授となって藩士に列せられた。
廃藩の後は、法官となり判事補に任ぜられ、後に南予中学校長となる。また大阪に出て鴻池家に聘されて家庭教育を行い、傍ら藤沢南岳・近藤南州らと交わって詩文の贈答を行った。帰国して、第三中学校(のちの宇和島中学校)・愛媛県尋常中学校(後の松山中学校)などで教えた。
明治29年7月20日死没、 66歳。宇和島の法円寺に葬る。珠山の人となりは、恬淡寡慾、興至れば酒を飲み吟詠を楽しみとした。詩文の佳作多く、『鬼ヶ城山遊記』などを遺している。昭和57年、梅の堂境内に左氏珠山之碑が建立された。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
河野 如風 ・ 郷土の先人 83
河野 如風 (こうの じょふう)
大正3年~昭和54年(1914~1979) 書家。
大正3年9月10日、東宇和郡上宇和村(現西予市)久枝に生まれる。本名信章。如風はその号。昭和20年洗心書道会を主宰し、「洗心」誌を発刊する。昭和24年片山萬年、昭和28年村上三島に師事。日展入選19回、昭和52年第9回改組日展出品作「飲巌夫家酔中作」は四国で最初の特選受賞となった。日展会友、毎日書道展審査会員、愛媛県美術会評議員・審査員として活躍。
その書は,篆隷楷行草、「かな」の各体を得意とし、とりわけ趙之謙を基調とした行書、連綿草作品は高い評価を受けた。晩年、中峯明本の研究に心血を注ぎ、作風を一変。作品集に「条幅手本集(14巻)」「如風条幅百選」。句集には、「如風句集」がある。昭和54年1月31日、64歳で死去。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
末光 信三 ・ 郷土の先人 82
明治18年~昭和46年(1885~1971) 教育家、牧師。
東宇和郡卯之町中町(現西予市)で、明治18年11月12日に生まれる。明治37年(1904)、札幌農学校で農業経済を専攻。札幌独立基督教会で受洗、キリスト教信者となる。農学校YMCAの創設や新渡戸稲造の遠友夜学校を助ける。後に、渡米レミドルヴァレー大学に学び(1910~1915)、帰って東北帝国大学農学部教授となる。英文学を講じYMCAで学生と合宿、人格的影響を与えた。
以前より新島襄の教育精神に共鳴していたので、大正9年招かれて同志社大学教授となり、教室内にとどまらず新島の名にちなむヨセフ会をリードして人材を育てた。大正12年から9年間、同志社中学校長を兼ねたが、国粋主義に追われて同志社女学校長に転じ、さらに昭和8年教頭に格下げされるなど苦難の道をたどった。しかし、同志社の宗教教育を堅持、しばしば当局と対立した。
終戦後、校長に復職。一方、昭和2年より同志社教会下鴨集会を育て、同13年賀茂教会をつくり、自らも59歳で牧師の資格を得て戦時下も福音の使徒としてその節をまげなかった。昭和46年9月16日死去、85歳。著書『寸言集』。墓は京都相国寺長得院にある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
竹葉 秀雄 ・ 郷土の先人 81
竹葉 秀雄 (たけば ひでお)
明治35年~昭和51年(1902~1976) 教育者。
明治35年3月20日、北宇和郡三間村宮野下(現宇和島市三間町)に生まれる。大正11年3月、愛媛県師範学校を卒業し三間小学校訓導となる。かたわら三間村塾を開いて、青年の指導に当たった。
昭和2年4月、東京小石川の金鶏学院の創立とともに入学し、学監安岡正篤(昭和期の国家主義運動家)の感化を受ける。三間村塾を中心に、塾生たちと寝食を共にし日本人として生きる道を教えた。三間村長・県社会教育委員・県公安委員を経て,県教育委員会委員長(昭和31年~44年)に就任、県教育界の発展に尽くした。県教育文化賞・県功労賞を受賞。宇和島名誉市民。昭和51年12月18日死去、74歳。
横綱・双葉山が安芸ノ海に70連勝を阻まれた際の有名な電報文、「イマダ モッケイタリエズ」について、双葉山自身が次のように記している。竹葉と中谷清一に送ったものだった。巷間伝わる、安岡正篤あてではなかったのだ。
わたしが昭和十四年の一月場所で安芸ノ海に敗れましたとき、酒井忠正氏と一夕をともにする機会にめぐまれ、北海道巡業中にとった十六ミリ映画をお目にかけたりなどして、静かなひとときを過ごすことができました。氏はその夜のわたくしを、「明鏡止水、淡々たる態度をみせた...」(酒井忠正氏著『相撲随筆』)云々と形容しておられますけれども、当のわたしにしてみれば、なかなかもってそれどころではありません。「木鶏」たらんと努力してきたことは事実だとしても、現実には容易に「木鶏」たりえない自分であることを、自証せざるを得なかったのです。かねてわたしの友人であり、また安岡先生の門下である神戸の中谷清一氏や四国の竹葉秀雄氏にあてて、
「イマダ モッケイタリエズ フタバ」
と打電しましたのは、当時のわたくしの偽りない心情の告白でありました。わたくしのこの電報はただちに中谷氏によって取次がれたものとみえて、外遊途上にあらわれた安岡先生のお手もとにもとどいた由、船のボーイは電文の意味がよく呑みこめないので、
「誤りがあるのではないだろうか」
と訝りながら、先生にお届けしたところ、先生は一読して、
「いや、これでよい」
といって肯かれたということを、後になって伝えきいたような次第です。
以上 双葉山定次著『相撲求道録』「交わりの世界」より
竹葉が、双葉山に対して「サクモヨシ チルモマタヨシ サクラバナ」と送った事に対しての、返事の電報だったとも言われる。どちらにしても、安岡正篤を介して大横綱・双葉山との交流があった事に違いはない。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
森川 智徳 ・ 郷土の先人 80
森川 智徳 (もりかわ とものり)
明治3年~大正13年(1870~1924) 上宇和村長。宇和平野の耕地整理を進めた。
明治3年7月21日、宇和郡永長村(現西予市)で山伏の家に生まれた。明治35年1月、衆望を担って28歳で上宇和村長に就任。明治39年1月まで在任して、宇和平野の耕地整理に取り組んだ。明治末期の耕地整理は大半を人力に頼る末知の事業であったが、私費で鹿児島など先進地を視察した。県の補助を頼りに村民を説得して、永長の一部をモデル整理して収穫倍増・裏作可能の実績をあげた。
以来近隣地区もこぞって耕地整理に踏み切り、三好春治らに受け継がれて2次にわたる耕地整理事業が実施され、1,000町歩に及ぶ広大な宇和の穀倉地帯が出現した。後に、修行して山伏になり、大正13年10月1日54歳で没した。三好春治とともに、郷里の若宮神社境内に頌徳碑が建てられた。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
徳山 駒吉 ・ 郷土の先人 79
徳山 駒吉 (とくやま こまきち)
生年不詳~明治21年(~1888) 治水功労者。東宇和郡野村町(現西予市)の出身で前獄溝の功労者である。
卯之町から宇和川にそって下がること40分、宇和川と稲生川(渓筋川)の出会うところに大きな堰堤がある。それから左岸に水路かおり、一杯に水をたたえて流れている。これが前獄溝で、明治元年に完成したものである。この溝道を計画し,実地に測量し杭を打ちこんだのは徳山駒吉である。
はじめは慶応3年工事に着手したが、難工事続きで大変な努力を要した。明治元年には、藩主伊達宗徳もその完成を見に来て、米174石(4,350俵)を下賜されたと言われている。この水路のお陰で、水田が新たに15ヘクタールも開かれ、地方産業に大きく貢献した。明治21年10月3日、死去。墓は野村町安楽寺にある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
元吉 秀三郎 ・ 郷土の先人 78
元吉 秀三郎 (もとよし ひでさぶろう)
万延元年~明治43年(1860~1910) 言論人・鹿児島新聞主筆。
万延元年7月14日、江戸藩邸で宇和島藩士の長男に生まれた。5歳のとき父に従って宇和島に帰り、同地の南予変則中学校から大分中津の慶応義塾分校に学び、後に東京の慶応義塾に移った。在学中から鶴城の筆名で東都の新聞に投稿し、中江篤介(兆民)の知遇を得た。
明治15年「鹿児島新聞」の創刊に当たり、社長野村政明が上京して福沢諭吉に記者派遣を請い、福沢は23歳の愛弟子元吉を推挙した。以後、鹿児島新聞の記者として活躍したが、明治21年10月、山本盛信に懇願され、野村が愛媛県の第1部長に就任したこともあって「豫讃新報」(のち愛媛新報)の主筆として松山に滞在、4年間当地で論陣を張った。
その後再び鹿児島新聞に帰り、同社の理事として経営に参加し、同新聞の基礎を築いた。社用で沖縄に出張中発病、明治43年4月6日49歳で没した。社葬では、千数百人の市民が参列、言論界の先駆者の死を惜しんだ。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
加藤 太郎松 ・ 郷土の先人 77
加藤 太郎松 (かとう たろうまつ)
安政4年~昭和11年(1857~1936) 漁業功労者。西宇和郡三崎地区における缶詰その他水産製造業の草分けと、韓国への出漁者の先達としての役割を果たした。地方自治への功労者でもある。
安政4年3月8日、宇和島藩三崎浦串(現西宇和郡三崎町串550番地)で、父千代松、母夕子の次男として生まれる。父千代松は米・砂糖のほか雑貨商を営む傍ら、農業を家業としていた。太郎松は、当初家業の商店を経営していたが、明治20年、太郎松の血族5人と親友の植田虎一の計6人でもって、西宇和郡串浦に水産商社「丸一組」を組織した。地元で採れるあわび・さざえを原料として、缶詰工場を現三崎漁業協同紺合所在地に創設した。
次いで、地元資源の乱獲を防止するとともに缶詰工場の原料確保のため、明治27年に丸一組と地元漁民との間に雇傭関係を結んだ。韓国漁場の中心地である大黒山島(全羅南道,木浦沖合)に集団で1か月近くかかって通漁し、現地にあわび・さざえの分工場を設置した。これに伴い、三崎地区漁民の海士操業上の便宜を与えたため、出漁者は年を追って増加した。この頃は、毎年漁船70隻(5~6tの無動力漁船)、漁民数にして270人余が3月上旬~11月下旬に至る間、採貝操業し活況を呈した。この漁民(海士)が採取したあわび・さざえは、すべて現地の工場に水揚げされた。
「丸一組」は、創立以来、漸次健全な発展を遂げ、工場を韓国(黒山島)に一か所、内地に三崎・佐伯・串の三か所を常設し、必要に応じて臨時に作業場を分設するまでになった。太郎松は将来の漁業動向をいち早く察知してその振興に努めたが、特に水産物の加工部に注力した。このため、あわび・さざえ缶詰をはじめ、煮干いわし・海草(クロメより沃度採取)・するめ等の製造に意を用いた。この改良を奨励したほか、明治38年三崎信用組合を創立し遠海出漁に多大の尽力をしたため、同40年には、関西九州府県連合共進会より水産功労者として表彰された。また明治23年34歳で、第1期の村議会議員に選ばれてから合計6期間同職を務めたほか,大正6年~8年の間、第9代三崎村村長に就任し村政に多大の貢献をした。
これ以外にも学務委員や郡会議員等の公職を歴任して、青年の風紀の粛正に熱意をもってあたり自ら夜学会を創設し、串小学校の建築費や神社の山林を寄付するなど、地方自治の面でも多くの功績を残した。
昭和11年10月12日、本籍地にて79歳で没した。地元の住民は氏の功に報いるため、昭和元年串部落のノカサ越に頌徳碑を建立した。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
若松 総兵衛 ・ 郷土の先人 76
若松 総兵衛 (わかまつ そうべえ)
文化11年頃~没年不詳(1814ころ~)宇和島藩士で農政家。幼名堅治、実名常齢。
札座下代伊作の三男として生まれ、文政5年、若松常樹の養子となる。15歳の時、父の番代として勘定方出仕、天保2年、家督を継ぎ扶持3人分9俵を受けた。その仕事柄や生活の苦しさ、あるいは父の友人であった和気書望の影響を受け、早くから経済学に興味を持つようになる。この間、登米引受方などを務め、度々の褒賞を受けている。
天保7年江戸詰となり、同8年か9年頃、佐藤信淵に師事して経済学を学ぶようになる。天保9年には、同藩の小池九蔵も藩命で入門している。天保12年、小池とともに帰国した。信淵に「少壮なれども老実温厚、此もまた用に足」ると評された。
総兵衛はその後、経済学書物の調筆を仰せ付けられ、天保13年には津島組代官に、嘉永5年には野村組代官に抜擢されている。津島組では「人参代官」と呼ばれた程、その栽培を奨励し、藩主宗城よりその功績を讃えられた。
安政3年、藩の物産方創設に尽力、翌年には物産方引受となった。万延元年には、寒天製造の成績が良好であるとして紋付・裃を賞与されるなど、殖産全般にわたり幅広い活動を示した。また、安政3年には、『宇藩経済辨』を著述した。その内容は、間引きと紙生産のこと、物産取締りのこと、農民教化の必要性、田地の利用法、土方普請の改革案、旅米のこと、稲の品種利用のことなど多方面にわたって農政を論じており、さらに下上層貧窮の救済法にまで及んでいる。他に『改正秘策』の著あり。墓は大超寺(現宇和島市)にある。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料)
村井 保固 ・ 郷土の先人 75
村井 保固 (むらい やすかた)
嘉永7年~昭和11年(1854~1936) 実業家・社会事業家。日本陶器創業者の1人で、郷里のため育英・慈善事業に尽くした。
安政元年(1854年)9月24日、吉田藩御舟手組の下士の家に生まれた。丁稚奉公や寺の飯炊き男をした後、16歳の時に村井家の養子となった。旧姓、林三治(さんじ)。宇和島の不棄英学校、広島、松山の英学校で学んだ後、24歳で慶應義塾の2年に編入、福沢諭吉に親炙した。同期の友には、犬養毅、尾崎行雄、本山彦一らがいた。
卒業後は、政治家か学者、官僚、ジャーナリストがほとんどであった当時の慶應の出身者としては珍しく、福沢諭吉の世話で貿易商社の森村組に入社。日米貿易のパイオニアとなって、戦前に太平洋を90回も横断したという。アメリカ人のキャロライン夫人と国際結婚をして生涯添い遂げ、昭和11年83歳で亡くなった。戦前の日本の主要な輸出品の1つであった陶器製造を初めて工業化した、日本陶器会社(ノリタケや大倉陶苑、東陶などの母胎)の設立と発展にも大きな貢献をした。
64歳の時、名古屋で受洗した。大正11年私財50万円を投じて、財団法人村井保固実業奨励会を組織して育英慈善事業を開始した。大正15年「故郷の苗床はよく注意して水を注ぎ、肥料を与えて立派に仕立てて行かねばならない」との考えで、郷里吉田町の村井邸跡に幼稚園を設け、吉田病院設立にも資金援助した。山室軍平の救世軍に多額の醵金をしたりもしている。
村井は同級生の犬養や尾崎のように政治家となって名をあげることもなく、また、ジャーナリストとなった本山彦一(毎日新聞の今日の礎を築いた)のように、長くその名を記憶されることもなかった。一企業人として森村組に生涯仕えた。昭和11年に世を去ったし、活動の場がアメリカであったから、村井の名が生地と勤めた企業以外に知られる事が少なかったのであろう。「ノリタケ」の社史にすら、日本陶器創業期に純白の陶磁器を開発するまでの苦難の時期を、ニューヨークの店で得た収益で支えた村井の名はどこにも見えない。私財を惜しみなく寄付し幼稚園までつくった生地の吉田でも、若い人々の間には、村井の名はそれほど知られてはいない。
昭和6年、本間俊平らと吉田町を中心に南予一帯を福音して回った。同年渡米、10年帰国して入院。病床にあって20万円を資金に財団法人村井保固愛郷会をつくり、郷土の育英・社会事業に充てた。昭和11年2月11日、81歳で没した。村井幼稚園・吉田病院に胸像が建てられた。村井は決して、おつにすました名士でも、紳士然とした人でもなかった。野人の風貌を持ち、多くの過剰な欲望と欠点を隠さず、これまた過剰とも思える宗教的な情熱を奔騰させながら、ひたむきに生涯を走り続けた人であった。
(参考・愛媛県生涯学習センター資料、「伊予細見」など)